2013年2月28日木曜日

【映画】時計じかけのオレンジ






遠い昔父親は私に名作という名作を片っ端から見せた。パリテキサス、波止場、ゴッドファーザー、カサブランカ、、、、。時計じかけのオレンジもその一つだった。正直それらを見るには私は若すぎた。どれも映像として頭の側面にへばりついているだけで、全く内容なんて覚えていない。覚えているのは唯一エイリアンくらいだ。あれは内容なんかないからな。HRギーガーのチ〇コってだけだ。
そんなことはどうでもいい。10年ぶりくらいに観た時計じかけのオレンジは非常に面白かった!

「世の中、キチガイです」というストレートなニーチェ哲学を、何の甘言も美称も用いずにありのままに描写した映画。
短縮して書くならバイオレンスアーティスティック。暴力の中にある美しさを存分に描いている。
これを見て感動したならば非人道的だ。しかし楽観するには完成されすぎている。私は圧倒された。ただそれだけに尽きる。
正直すごすぎて的確な言葉が見つからない。かれこれ一月は考えてるがまとまった答えが出ない。いうなればこの映画で描いている未来とは当時での未来でありバイオレンスは今でいう明日である。
楽観すべきか悲観すべきか。オプティミストはこの映画をどう見るのか。評価されるべきであって評価されてはならない。そういう意味でボラットに近い。


劇中アレックスが洗脳されるルドビコ心理療法。SF的ではあるがノンフィクションになりつつある。
ルドビコ心理療法と呼ばれる洗脳実験の内実は、眼球に覚醒剤を注入した状態で、バイオレンスと集団レイプの映像を被験者に集中的に見せることによって、それらに対する拒絶反応を示す人格改造の方略である。これによりアレックスは暴力やセックスに対して内在的に拒絶する。被験者は悪への傾斜をパラドックスとして善に傾く。暴力行為への衝動が、強烈な肉体的苦痛を伴う。ある意味で731部隊の人体実験よりもおぞましい。外傷としても残らず永遠に続くのだ。
ここで問題となるのはチョイスだ。ルドビコ心理療法の根底にあるのは聖書における原罪。生まれ持って負いそれを罪と認識するもの。しかし我々は罪を背負いながらもそれを生かす場合や悔い改める場合、さまざまなチョイスをする権利がある。しかしこの療法においては一方的で高圧的なものであり、そのやり方は神に反する(むろん映画の中の話ではあるが)。非行は防げても、道徳的選択の能力を奪われた生き物に過ぎない。これは劇中の神父のセリフであるがまさに見た目は自由であっても拘束器具でガチガチに固められているのと何ら変わりはない。

本作の基本モチーフは、「表面的には健全で完全だが、その内部は自己統制の及ばない反動のメカニズムのせいで廃人同様となった人間」、それこそがクロックワークオレンジなのだ。


私が思うに人間の有史以来、人間の「暴力」が消失した時代が存在しないということはいうまでもないし、それは人間の内在的欲求に少なからずバイオレンスの欲求があるということだ。それは倫理的な観点で見れば間違いではあるが、太古の昔で考えれば、争うことによって我々は生きながらえることができてきた
。バイオレンスを悪と定義づけた瞬間からそれはただの規範にすぎず、客観的にみれば、一つの自由を失ったことにもなる。
仮に眠ることが悪となったとしよう。それに対して政府は対策を練り、著しく睡眠時間が長い人間は優先的に拘留し心理療法で眠ることに対して嫌悪感を示すよう暗示をかける。当然眠れなくなった被験者は気が狂い舌を噛んで死ぬことは目に見えている。もちろんバイオレンスが生きていく上で必要不可欠なものではないからこの例は適切とは言えないがおおざっぱにいえばそれほど驚異的なものだ。
刑法でも人殺しはダメなんて当たり前すぎて書いてないし、いまさら再考すべきことでもないが原点に立って考えるべきは、悪とは悪なのか?これが時計じかけのオレンジでのテーマなのではないか。

アレックスこそが暴力を具現化したかのような横暴っぷりを前半では描いていたが、その暴力に対して暴力で抑圧したのは言うまでもなく国家であり、後半ではそれが描かれている。
ラストシーンでアレックスは第九のメロディに耐えかねて窓から飛び降り命を断とうとする。それを知った政府はアレックスが目覚めるまでに暗示を解く。もちろんメディアからの批判を避けるためだ。それにより目覚めたアレックスは以前よりもより暴力的で獰猛なクリーチャーとなる。アレックス不敵な笑いを浮かべるとき、それは国家権力により操られた男のコメディな面とトラジディな面が含まれていると感じた。まさに暴力で暴力を洗う始末。


とにかく見ていない人はすぐレンタルでもアマゾンでもいいから手に入れて観てほしい。アイデンティティーとは、アートとは、バイオレンスとは、映画とは。すべてを考えさせる。


「完璧に治ったね」

【映画】七人の侍



日本が誇る巨匠黒澤明監督の七人の侍鑑賞。時計じかけのオレンジ同様、いまさら私が何か言う必要もないし偉そうに批判なんてこともできないのでレビューするまでもないのが事実なのだが思ったことを少し。
あらすじ
戦国時代、戦により行き場を失い盗賊と化した野武士の一団がある農村を狙っていた。村は前年も野武士に襲われ略奪の憂き目にあっていた。村が絶望に包まれる中、利吉という若い百姓が我慢の限界に達し、野武士を皆突き殺すべきだと主張する。村人の相談を受けた長老の儀作は村を守るために侍を雇うことを思い立つ。

ここからは見ていない人に話すつもりでひも解いていくのでご了承を。
ディスクは二枚組で一枚目には勘兵衛が仲間を集めるまでの話、後半は野武士と戦う話といった内容となっている。

勘兵衛の人柄がしつこいくらいに良い人に描かれている。余裕があり強く、それでいて謙虚で人間の鏡のような人だ。一方で三船敏郎演じる菊千代は、落ち着きがなく動物的で頭があまりよろしくない。しかし菊千代が誰よりも百姓の気持ちがわかっていて、戦に心を奪われていない人間だ。
久蔵は無口で表情がないが剣の腕は誰よりもある。こんな感じで非常にバランスがとれている。
荒野の七人を見ると笑ってしまうほどキャラクターを忠実にオマージュしている。異なるのは勝四郎と菊千代の行為がかぶっているところか。

~休憩~(見ればこの意味がわかる)


技法についてもいまさらひも解く必要もないが、徹底した望遠レンズでパーンフォーカスを駆使し、役者の自然な表情を引き出している。黒澤先生はカメラを二台から三台同時に撮り、あらゆる角度から撮影していたそうな。俳優も体中で演技しなければいけないから気を抜くことができずかなり疲れるだろう。
パーンフォーカスとはおおざっぱにいえばピントを全体にあわせること。普通手前の人間と奥の人間を撮る場合、絞り方でどっちかがぼやけるが、光を強くしてどちらにもピントを合わせる。黒澤先生曰く、ぼやけるくらいなら奥の人間は映さないほうがいいそうな。確かにしゃべり手を見る人間がいればそれを傍聴してる役を見る人間もいる。そしてそのどちらをオーディエンスが見ているかは分からない。そう考えればこの理論は正しい。しかし最近では一眼レフのような極端な絞りでぼやかす技法が流行っているが、それはそれ。

終戦後間もなく作られたとは思えない、というのが正直な感想。笑いも色あせず今も笑えたし、アクションも躍動感があってハラハラした。火縄銃に打たれて死ぬ時のモーションとSEがかみ合ってなかったのが残念だったが当時の道具から考えてまず無理だろう。冒頭の農民の会話なんかただでさえ方言で分かんないのにコモって聞こえないから日本語字幕で見たくらい


七人の侍は多大なバジェットと200分というとにかく長いストーリーで当時としてはありえないフィルムだった。エキストラ、俳優、アクション、ロケーションすべてが観ていて自然体があり、それが恣意的であると感じさせないあたりが莫大な金がかかっていることを物語っているのであり、その自然体が三時間余りの長丁場を長いと感じさせないあたりにミラクルを起こしている。結果として後世まで語り継がれオマージュ作品は多く作られ、日本の監督はおろか、海外の多くの監督までをも虜にしてしまうことが七人の侍はすさまじい映画だという証明となった。日本人なら見ないと死んでから黒澤先生に怒られます。アルゴで大成功したサムライミあたりにリメイクしてほしいけど、タイトルはきっと七人のサムライミなんだろうね。死。

2013年2月24日日曜日

【雑記】All works and no play...

なすことすべてに意味を見出す日々に少々疲れ気味でスケートボーディングでもしたいところだが一度やりだすと止まらなくなる性格なので自分で自分を抑制している。

代わりと言っては何だが親愛なるロックスターから一昨年出て買おう買おうと思ってはいたものの先延ばしにしていたMaxPayne3をようやく買った。コンピューターゲームといえば昨今では犯罪を助長するとベーゴマで育ってきた評論家の方々は口をそろえて言うが、GTAシリーズはそんな犯罪への影響力が最もあると言われた凶悪なゲームとして6年ほど前に危険図書指定を受けた。ゲームと犯罪の因果関係などあったとしても数パーセントであるし、それを言うならば犯罪者はみな酸素を吸っていた、とか今までにカップめんを口にしたことがあった、とか映画を見たことがあった、なんてのも当てはまることになる。そうはいってもロックスターが輩出するのは残虐なゲームであることは間違いのないことなのだが、ロックスターが出すマックスペインやGTA、LAnoire、マンハントにはロマンが詰まっている。タランティーノの映画のような、七人の侍のような、一人ひとりのキャラクターがしっかりとできていて、喜劇を見ているようで非常に入り込みやすいのだ。
マックスペインはシナリオとガンアクションの面白さからもはや三作目となった。ブラジルのサンパウロが舞台で町の作りこみようはおろか、スラムとブルジョアの対比、民間テロ組織の残虐性、自警団の汚職などノンフィクションではないリアルをとてもスリリングに描いていた。ムービーシーンやバレットタイムなど映画のような作りこみようで21世紀の玩具という印象を受けた。自分は難易度普通でプレイしたのだがまぁ死ぬこと。通して100回ぐらいコンティニューしたか?くらいの死にゲー。試しにイージーにしてみたらサクサクサクサク進んだのだがイージーに屈せずミディアムで薦めたところFUCKやらGODAMNやらBULSHITなど何度連呼したことか。ストレス発散してるのかためてるのか謎なところだが話自体はとても凝った作りになっているしなによりフィールドが多岐にわたるので飽きない。クラブや高級マンション、市街地、亜熱帯、スタジアム、空港などブラジルは撮ってもいいところなんだね銃撃戦をやるには。
しかしマルチプレイが過疎ってて人がいないせいでまったく面白くないのでこれはなんとかしたほうがいいと思う。ベストプライスで出して新規ユーザーを増やせばいいんじゃないか?


話は変わり音楽について。
就職活動。日本のレーベルを結構受けているのだがレーベル名を聞いてパッと思い浮かんだレーベルはエグザイルくらいで他はまったくひらめかないのでHPを見る。そこには聞いたこともないバンドばかりで知っているのは全体の数パーセント。大丈夫なのかJpop。一応タワーレコードで邦楽アーティストの名前は叩きこんだつもりだったがロシアのハードコアバンドって言われても分かんないような名前ばかりだった。
違法ダウンロードの蔓延もさることながら日本の音楽シーンが面白くないことがもっともな理由に挙げられる。もちろん中高生や大学生などエネルギーに満ち溢れるティーネイジャーを中心に激ロック系は流行っている。私もマキシマムザホルモンやPTP、MWAM、ONE OK ROCKは好きだ。
しかし圧倒的にロックが馬鹿じゃない。ロックとは馬鹿でなくてはならない。お利口さんではないのだ。先に何をしでかすかわからない、そんな音楽性が我々を恍惚とさせ耽溺させるのであって、お利口さん、いわばマニュアルで動くような音楽は先が読めてしまって面白くない、と私は考える。John soneやら山塚EYE、Sunn O)))を見れば一目瞭然だが意味のわからない予測不明な音楽を糞真面目にやり続けている。いやなら聞くなと言わんばかりに。しかしそれこそがロックなのだ。
日本のロックとはいわば本来残虐性マックスのグリム童話を時代の流れに合わせて極限までソフトにし、おいしいところだけを抜き取った厚紙製のミニ絵本だ。面白くもなんともない。俺たちが音楽で世界を変えると口では言い、結局のところシングルを大量に出し小金を稼いでからアルバムを出ししかも値段は5000円とかいう発展途上国の村一つ買えそうな破格で商業的なやり方をする、マニフェストと見当違いのことをする政治家のような堕落っぷり。黒人がブルースをやり始め、それを白人がロックとしてパクり、それをさらに日本人がロックとしてパクる。三番煎じじゃあ味も薄くなるのは無理もないが今一度音楽シーンを見直す必要がある。

こんなことを履歴書に書いたところで責任の伴わないお前に何がわかると言われておしまいだろうが。

ブラックメタルは馬鹿でおもしろい。あいにく細分化されたジャンルで考えればロックではないがやってることはロックだ。キリスト教原理主義を根っから嫌いペイガン崇拝をし、自らをサタンと称し、ネオナチであったり戦争肯定であったり教会を焼いたりを本気でやってる。それだけでも最高にエンターテイナーなのにしまいには顔を白塗りにして火を吹く。ジャケのセンスも秀逸だ。中でも私はリフレインの不規則性とグレゴリオ聖歌をSEとして使ったり邪悪さは業界でもトップクラスのFUNERAL MISTをお勧めする。この機会にぜひ聞いてほしい。
http://youtu.be/8o4gNJp2W5I


町山知宏の教科書に載っていないUSA語録を読んでる。松島ナオミとの番組未公開映画を見るでおなじみの方。映画評論家だったかな。アメリカをよく勉強してるな~ってのが伝わる内容で非常に面白い。メディアで植えつけられた我々のアメリカの印象はシュワルツェネガーでしかないからね。シュワちゃんはしかもオーストリア人だしね。
就活と関係ない本を読むなと言われても....就活は場数踏む事も大事かもしれんが、内面の質を高めないと戦えないしねーと自分に言い聞かせて後ずさりしている。

あーサンパウロにいっそのこと臓器売りに行くかー

2013年2月21日木曜日

【映画】ボラット

 

 
アメリカ合衆国に関して何も知識がない人間であれば、ただの下劣でわけがわからないパキスタン人がバカやってる映画で終わるだろう。しかしこの映画でもっともバカでキチガイじみているのは対象であるアメリカ人なのだ。
人間は客観的に物を見れない。見れていれば今頃戦争だってとっくに終わってるし雇用もとっくに解決してる。国という殻にこもると、その中にいることが正義だと勘違いするようになる。その一例として大国アメリカが選ばれた。極度の保守的脳で筋肉質、ステロイドを打っておきながらホモは地獄の炎で燃やしたい。キリストこそがすべてで、それでいて中東の血を欲している。このパラドックスで満ちた偽りと主張大好きなヒーロー大国は、こんなアホなカタチ(ボラットしかりマイケルムーアしかり)でないと自分たちの愚行に気づかないようだ。

ボラットはカザフスタンの田舎から出てきた青年が、アメリカの文化を学ぶという流れに沿って進む。実際はイギリス生まれのコメディアン、サシャ・バロン・コーエンという俳優が髪をチリ毛にして中東訛りの英語で人々を騙しているのだが。ちなみに彼は昨年公開以来メガヒットを記録しているレ・ミゼラブルにも宿屋の主人として出演している。大快挙。ボラットではレミゼラブルに出られるようなツラは一切見せてない。謎。
 
内容は正直誰向けでもない。アメリカンジョークかといえばそうでもないし、頭の固い人が見ても多分ブチギレるし、頭の弱い人が観ても政治的背景とかわかんないしつまらないだろう。
じゃあなんであそこまで話題になったかといえば、多少なりともどの層にも面白い点と不快な点がバランスよくあるのだろう。
例えばボラットがよく口にする「アメリカと合衆国(united states and america)」は、元アラスカ州知事サラペイリンのツイッターでの失言を引用してる。映画ブルーノでも「アフリカという国」という言い回しが出てくるが、これもサラペイリン。ここで分かって笑うのが頭固い人。でもここで笑う人は多分、便所の水で顔洗うとこでは笑わないだろう。え、どっちも笑ったんだけど!って言う人は多分B型だな。一方で頭軟い人はこの逆なわけだ。
 
ボラットが暴れるたびに本当のアメリカが見えてくる
 
これはCMの言い回しだが的を射ている。我々が普段ドラマやテレビ、映画で目にする煌びやかでエレガントなアメリカとは表面上なものであり、広大なアメリカのはじっこ(東海岸と西海岸)だけだ。それ以外の真実はここにある。何かに取りつかれたように保守的で、多分それはキリストで、勝手にお告げだとか言って銃を持ち、自分らと違うものは徹底的にたたきつぶす。それでいて自分はヒーローだ。どうかしてる。もちろん全員が全員ではない。それは昨今話題になっている中国人の暴徒化が一部であったり、韓国人のパクリ文化といわれるものも一部の人間がやっているということと同じであって、全体を否定はできない。しかし集団アイデンティティーというものは悪い部分が浮き彫りにされやすい。
 
中学の頃旅したアメリカのオハイオ州はすべてがビックですべてがきらびやかだった。しかしひとたび田舎にいくとほとんどが太っていて狂信的なクリスチャンですぐパーティを開いては議論を交わしあうリアルアメリカンだったのを今でも覚えている。しかし選挙で最終的に結果を左右するのはここオハイオであるし、目の前の人々なのだと感じた。ダイヤと金のアクセサリーをぶら下げ、毛皮のコートを着てランボルギーニに乗るのは一部だ。ほとんどはこの映画が語るところにある。
 
いちおうストーリーとか展開があるしことがうまく進みすぎてるからやらせだろう。カメラアングルとかもしっかりしてるし。さあこのタイミングで怒って!なんて具合にはいかないでしょ。つうか気付くよねカザフスタンの人じゃないって。だから訴訟問題になってるみたいなのも多分やらせかな?
 
観るべきかと言われたら別に見なくていいんじゃないって感じだけど観てる人がいたら異様に話が盛り上がるであろうそんな映画。少なくとも2001年宇宙の旅よりはおもしろい。
 
あろうことか食事中に観てしまい完全に食欲が失せたよね。
 

2013年2月17日日曜日

【映画】ソイレントグリーン




2022年のアメリカ、工業化がすすみケミカルがのさばり水を汚し、大気は汚れ食べ物が育たなくなった世界。野菜はダイアモンドより高価になり牛肉などさっぱり目にしなくなった。食べ物は高価すぎて買えないので、ソイレント社が作った非常食のようなソイレントグリーンを配給で食べ、人々は生き延びていた。
雇用制度は衰退しており町は浮浪者であふれかえり、気をつけて歩かないと踏んでしまうほど道には浮浪者が。しかしその一方で高所得者は天国のような暮らし。お湯をふんだんに使い、いいにおいの石鹸、モダンなデザインのインテリア、最新鋭の機械、本物の野菜を食べ、暮らしは保障されている。



主人公のソーンは警部として知恵袋役のソルじいさんと小さなアパートに一緒に住んでいた。

そんなある日ソイレント社の重要な幹部がゴロツキによって自宅で殺される。しかし幹部は死ぬ間際にまるで殺されるのを待っていたのかのような様子で抵抗もせず意味深な言葉を口にして死ぬ。

ソーンはこの事件を担当し単なる強盗ではないと読んだ。何も奪われていないし、何より普段から厳重な警備がたまたま薄れていて、しっかりなっていた警報機が鳴らなかったからだ。しかし捜査を進めていくうちにお偉いによって終止符を打つよう告げられる。頑固者のソーンはあきらめきれず捜査を続けるが恐るべき事実を目の当たりにする...。



有名な映画なのでもはやネタばれなんてものにはならないだろうが、一応もったいぶってみた。恐るべき事実、それはソイレントグリーンとはプランクトンから生成されたものではなく人間だったのだ。
終盤同居人のソルがこの事実を知り、安楽死をする。ソーンはソルの死体がどこに向かうのか気になり尾行する。そしてたどりついた先はなんとソイレントグリーン工場だったのだ。プランクトンなどとうの昔に死滅していた。増えすぎた人口で対処するにはもはや人間を人口加工物に変えるしかなかったのだ。政府はそれをひた隠しにし、その事実を知ってノイローゼになってしまった幹部は情報がリークされるのを恐れて政府がころしたのだ。
ソーンは最後に、「ソイレントグリーンは人間だ!早くなんとかしなければ食用の人間が生産されることになる」と危険を示唆する。この映画で最も恐ろしいのは70年代に作った映画なのに、割と今の状況とリンクしていることだ。人口はこれからも増え続ける。また温暖化もいまだ存在するとは言われている。そして食品加工問題、大気汚染、雇用問題、予言ではないが、あながち間違っていないところが恐ろしい。

ソイレントグリーンで語られるべきは、大量生産が生む危機モノの価値、そして当時タブーであっただろうカニバリズムについてだ。間違いなく70年代SFとしては最高傑作であるしなにより脚本が素晴らしい。演技も撮り方も完ぺきだ。


ものがありあふれてる時代、誰が目の前の食べ物の価値をわかるだろう?これは食べ物に限ったことではない。生きるということだけでも感謝をすることを我々は忘れがちだ。ここにキリスト教の日用の糧に感謝せよ、という一節が当てはまる。
我々はバブルの頃、湯水のごとく金や物を使い大量に消費しては捨て、デフレが到来するとはじけたバブルを惜しんだ。今日を生き延びるための目の前のものがあることにありがたみなど微塵も思わなかったはずだ。これが人間の生まれ持っての罪、原罪であるといえる。人間は弱い。よほど訓練しなければ岩のように固く粘着質な欲というものに一生苦しめられる。あの親鸞和尚でさえも自分の欲深さに嘆いたのだから無理もない。映画の魂胆にその説教が感じられる。


劇中、事件があった大豪邸を捜索する際、ソーンは宝石より高価なリアルでフレッシュな野菜や肉などの食べ物を見つけ、職権乱用により持ち帰る。ソーンは生まれてこの方ビスコみたいなソイレントグリーンしか食べていないので味はわからない。ソルに見せると幸せそうな顔をしてビーフシチューを作る。多分このシーンがこの映画で最も見どころだと思うのだが、まるで本当に初めて食べたかのような、ソルでいうと本当に久々に口にしたかのようにおいしそうにビーフシチューを食べるのだ。初めて口にするレタスのシャキシャキ感、小鍋でじっくり煮詰めたビーフシチューの旨み、デザートにちょっと硬い小ぶりの甘いリンゴ、味がまるで伝わってくるかのような素晴らしい演技。あれこそ俳優っていうんだよな。どっかのエグザイルがチョロっとやる演技ってのは遊びだと改めて感じた。あれは素人にはできない。

人間の死体が人々に知られずに食われてるなんてソイレントグリーンはすさまじい映画だ~なんてなまぬるい考えをもっているのならば再考すべきだ。我々の食事は保障されているとは限らない。自分で栽培したものならば別だが、そのコンビニの弁当は本当に豚の肉?米?野菜?
人間とまではいかなくとも正しいものであるとは限らない。

【映画】ムーンライズキングダム




ウェスアンダーソン監督のムーンライズキングダム鑑賞。
世間では絶賛されてる一方で何が面白いの?、それが?みたいな意見も結構あり二極化しているようだ。無理もない。なぜなら意味なんてないからだ。意味と言ったらプチ・ノアの箱舟の再来?みたいなもんか。
かつての映画産業で考えれば映画は絶大な力が働き金が動くものであった。例えば黒人奴隷解放宣言がなされた後でいえば、KKKがプロパガンダとして映画を利用していた。ハリウッドがユダヤ人によるものなのだから仕方がない。映画には隠れたメッセージや社会批判、後に起こりうる損害を危惧するものが一般的であり、年寄りを黒人が送り迎えするだけのようなゆるゆるストーリーは稀であった。しかし時代が変わればニーズも変わる。危険を危惧し続ける者もいれば、物事をどこか遠くでパイプでもふかしながら座ってみているかのようなものも出てくる。ムーンライズキングダムはちょうどそんなところだ。


舞台は1960年代のニューイングランド島。ボーイスカウトに所属する、ちょっと周りとは違う若い少年と、学校では問題児とされている難しいお年頃の少女が逃避行を企て、それを保安官と少女の両親が、はては島全体が巻き込まれていく。ダージリン急行と同じくあらすじはこんなもんで十分すぎる。ウェスアンダーソンの魅力はどう考えてもストーリーではなく空気感と絵本のような鮮やかさにある。
シーンごとに色が決まっているようで前半は黄色がメイン(ボーイスカウト)、中盤は緑(森)、後半は黒(嵐)。カメラワークも健在で横スクロールやらPOVなどモノの見方が面白い。特に好きなのは二人が駆け落ちしたのがわかり、皆で捜索しキャットフードを見つけるシーン。横スクロールで各々がそれぞれ違ったことをしていて、まるで絵本を見ているかのようでわくわくする。
たかだかこども二人が駆け落ちしたからって別にそんな遠くにいくわけじゃないし大丈夫だろ、とたかをくくる大人。しかし心の底では自分たちもバツの悪い思いをしていた。彼らもまた不倫をしており、誰にもバレていないと思っていた。だからこそ見捨てられないし必死に探す。

ちなみに警部役にブルースウィルスが出ている。彼はあまり仕事を選ばないのか、あるいはワーカホリックなのか、少なくとも重火器をぶっ放すだけの脳筋役者ではないらしい。どっかのスタローンと違って。しかもすげえいいおじさん役だ。最初ブルースウィルスじゃなくてもよかったんじゃないかと考えたが、仮にショーンペンだったらシリアスなサスペンスみたいになっていたし、ジャックニコルソンだったら多分役を全部持ってっちゃってサム君のインパクトがなくなるだろう。ちょうどよかったのかもしれない。
主人公のサムくんも今回が映画デビューとは思えない、子供が大人ぶってるマセガキ演技でとてもよかった。今後もウェスアンダーソンに呼ばれるだろう。大抵こういう役は表情豊かだったり、キュートな子が多いのだが、彼はスタンドバイミーの例の保守的マセガキ彷彿とさせる。しかしスタンドバイミーとちがってかわいらしい。基本的に表情はない。
 
女の子のほうも今回が初映画らしく大人らしいエマワトソンのような子だった。しかしカメラアングルといい表情といいラナデルレイにしか見えなかったのはナイショ。クリソツ。言うならばカナブンのピアスはよく似合っていた。
 

加えていうのであればファッションや小物に細かい部分にまで手がこんでいた。レコードプレイヤーではなくトイプレイヤーでソノシートを聞く子供たちやサムのかわいらしいアライグマのファッション、赤い三階建てのオサレなおうち、少女が読む魔法の本、僕が大好きなファイアキング、警部の60年らしいファッション、そして物語の語り手となる聴覚班のおじいちゃんのファッション。60年代アメリカンなアイテムがたくさん出てくる。今流行ってるしちょうどいいね。

SFやら火薬が好きな人、どんでん返しやスプラッタが映画における肝と考える人にはまずお勧めできないけど、それらすべてが大好きな私でも楽しめたしこれはこれと考えて観れる人にはぜひ見てほしい。忙しい毎日に追われ美しいものに触れていない現代人、少し立ち止まってどこかの国の誰かのおかしな日常を覗いてみては??
 

2013年2月6日水曜日

【映画】テッド



差別と下劣をクマの人形というオブラートに包んで15禁にしたような映画。これはゾンビ映画よりよっぽど悪影響だ。
しかしリアルアメリカンの心境というかツボみたいなのがわかるいい資料的映画だと思う。チャイニーズに抱く感情だったり金髪=バカとか肥満は基本的に見下されている(おデブちゃんにスーザンボイルとののしるところには笑った)だったりアメリカの国民性がよくわかる。
ただ絶対的に映画館で見る映画館ではないし、レミゼラブルと並んで公開していることに謝ってほしい。

ノラジョーンズが出てる上にすげえ下ネタを連発していてイメージが崩れダンサーインザダーク観た後並みのテンションになった。あとフラッシュゴードンのあの人出しすぎ。

とにかく批判と差別の嵐で大爆笑できる作品だがご家族と見ることは絶対的にお勧めしない。ア〇ルとか顔〇射とか余裕で出てくるのでレンタルされたら深夜にPCでニヤニヤしながら観るように。



マークウォールバーグはいつから仕事を選ばないようになってしまったのか....

【映画】ファーストフードネイション

アートワークやCMからしてドキュメンタリーテイストだと思われがちだが、ちゃんとしたストーリー仕立て。
若者からお年寄りまであらゆる層から好評を得ている大手バーガーチェーンが、あるとき外部からの調査で新作バーガーのパテに大腸菌が検出されたとの報告があった。真偽を確かめるため幹部である主人公は精肉工場をボスの命令により視察する。見た限りでは雑菌が混入するような様子もなくクリーンだったが、周囲の口コミ調査により恐るべきことが発覚する。

パテに混入した大腸菌は肉を切る際、ベルトコンベアが速すぎて内臓がうまく捌けず、糞まみれになり肉を汚すが、仕事は流れるように来るので仕方がないと。要は事業のファスト化が注意散漫へとつながり結果として大腸菌混入という形となった。


我々が一つのものを口にする時そのものには多くの人手と大きな金が動いている。例えマクド○ナルドで500円しか払っていなかったとしてもその瞬間500円払った人間が大量にいれば大きな金が動くのは当たり前だ。バーガーが届くまでには、本社が新商品を企画し、卸が牧場と交渉して牛を安く買い、メキシコ人がそれを安月給で捌き、高校生が唾入りのバーガーをレジで売る。
自分で作って自分で売るのであれば当然愛着が湧くし、そのものの価値は自分が一番知っている。
しかしこれだけ多くの人間、人種、金が動くと各々のレスポンシビリティは当然薄くなる。この労働ピラミッド、負のヒエラルキーはあらゆる事態を招き、結果としてそれは誰の責任でもなくなってしまう。そうそれは目先の金にとらわれ続け数字だけみている上の人間が悪いのだ。

メキシコには仕事はない。あっても時給3ドルばかしの安さでいつまでたっても未来はない。コカインを捌くマフィアになれば話は別だが。
しかしアメリカはチャンスの国だ。リスクを冒してでも不法移民となり職を選ばず働けば、大金ではないがメキシコよりは数倍稼げる。だからこそ精肉場のような危険が多い場所であっても誰も文句も言わず働くのだ。終盤、意識の高い大学生たちが(まさかのアヴリルラヴィーン)、企業の腐敗と現状を世間の目にさらすため、牧場の塀を壊して牛を逃がそうとする。しかし目の前にある自由に対してただの一頭も外には出ようとしない。ここにいればほし草は食えるし、安定した暮らしができると思っているからであり、それはメキシコ人と同じことなのだ。そして企業もまた先に起こるリスクには目を向けず目先の効用に満たされている。



途中ブルースウィルスが出ていて驚いたのだが、彼の言葉が非常に深い。

”年に4万人死んでるからといって企業は車の生産を辞めるか?ばっちい菌が混ざろうが焼けば問題ない。そうやっていちいちびくびくしているからアメリカ人はだめなんだ”と。

ダイハードのキャラのまま出演してしまったかのようなワイルドさだったが、言っていることは正しい。それなりの安心がほしければそれなりの金がいるのだ。


最後に主人公が目にしなかった工場の裏の部分、いわゆる屠殺場が映される。足首まで浸る牛の血、けたたましい声を上げながら喉を切られて死んでいく牛、我々が目にしないリアルであり、アルバイトの高校生が望んでいたリアルとはこういうことである。結局リアルを求めるだけなのは富裕層で、リアルを否応なしに目の当たりにするのはベガマンなのだ。我々は現実を見ようとすらしていない。

結局視察を終えた主人公はこれらの事実を理解し、ブルースウィルスの説得も忘れ、新たな商品を苦虫を噛み潰したような顔で発表する。顧客に糞を食わそうが金が入ってくれば構わない、企業とは恐ろしいものである。しかしこれがリアルなのだ。傍観こそ罪だ。

安さ速さの陰に潜む悪は恐るべきものであり頼りになるのは自分の舌だけだ。あらゆるものが手軽になった今再び観るべき映画である。
ちなみに某大手バーガーチェーンとしているが間違いなくあの会社のこと。もはや死にかけのハトから作ったナゲットしか食えないね。

2013年2月1日金曜日

【映画】レ・ミゼラブル

物語の根底にあるのは絶対的な愛であり、それは隣人愛と言ったキリスト教をベースにした愛であり、この作品はある種のキリスト教賛歌といえる。


舞台は1810年フランス、ジャンバルジャンはパン一つ盗んだ罪で19年の刑を負っていた。間違いなくそれは理不尽なものであり、それに屈するしかない不条理さを"下を向け!(LOOK DOWN)上には神はいない、下は地獄、20年間生き地獄だ"という歌詞が物語っている。この時、絶対神の如く鎮座しているのがジャベール警部であり、彼は罪人を下劣な物として造船所の上から見下していた。しかし彼もまた罪人の子であり、その不条理さを認めたくない思いから罪人を決して許さず、また自身を正義であると豪語している。それはジャンを逃がし必ず捕まえる事を決意した屋上の台詞でも分かる。自身を規則正しく煌めく星に例え、善悪二元論に固執していた。それが結果として彼を滅ぼす。

話は戻る。ジャンは仮釈放されたが再び出所しなければ牢獄戻りだった。罪人のレッテルを貼られながら職を探すも、見下され罪人扱いされ、飲み食いも出来ず憎悪と悲しみに暮れたジャンは教会の前で野宿するのだった。そこへ神父が訪れ、彼に暖かい食べ物と寝床を無償で提供した。彼はその言葉に甘えるだけでなく、自らの短所である手癖の悪さから銀食器を盗み家を後にする。
次の日の朝、憲兵に捕まったジャンが神父の元へ連れられた。憲兵は罰を求めたが、むしろ神父は差し上げたと嘘をつくだけでなく、神父が大切にしていた銀の燭台をも与えるのであった。これがかの有名な銀の燭台の例えであり、間違いなくキリスト教の精神である隣人を愛せ、与えなさいそうすれば救われる精神にのっとっている。これにより自身を猛烈に恥じ、感銘を受けたジャンは神に対して生まれ変わる事を誓う。司祭から受け取った「銀の燭台」は後のシーンでも出てきておりジャンの生まれ変わった証拠であった。


それからしばらくしてジャンは自身に鞭打って人々を救い、工場のマネージャーになるだけでなく市長になっていた。そこで働く女性達は皆卑しく、シングルマザーのファンティーヌの美しさに嫉妬し有る事無い事捏造して隠し子がいることを工場長に告げ口をした。彼女はクビになり、絶望的な飢餓時代を迎えているフランスの不毛の路地へと投げ出されてしまう。当然稼ぐ口はなく、なければ娘を救うためにいかなる事をもするのが母である。悲しくも彼女は美しい髪を売り(10フラン=約2万)、その身体すら売ってしまう。この時ドン底に落ち、かつての幸せの頃、そして夢を打ち砕かれたことを身を絞る思いで歌った"I dream a dream"は名曲だ。思わず感情移入して私は涙した。やがて彼女は病気になってしまい偶然通りかかったジャンに病院に連れていかれるが、もはや彼女の身体はボロボロで長くはなかった。ファンティーヌはその細く痩せ細った身体から力を込めて一人娘コゼットへの愛を歌いジャンに娘を託す。コゼットは宿屋の夫婦の元へ預けられており、まるで灰かぶりの少女のような虐げられた生活をしていた。宿はお節介なくらい面倒見のいい宿で、手癖の悪い夫婦達が来客の荷物を盗んで生活していた。鮮やかなスリスキルでメガネを取り帽子を取りカバンをとり、、、トイレの下を突き破って「『ウン』の尽き」ってセリフは笑えた。戸田奈津子ではありえんだろう。ジャンは相変わらず魔女みたいなヘレナボナムカーターと主人に大金を払って、今だ懲りずに追跡を続けるジャベールから逃れる為にパリへと足を運ぶ。


8年後、パリは飢饉と大きな格差により貧民は苦しみ、富豪は裕福な暮らしを堪能していたが、民衆の怒りは頂点に達し革命を起こすつもりでいた。馬車に乗る貴族に対して序盤で歌っていた”下を向けLook Down!”を別の意味で歌っていたのが面白い。ABCの友のメンバーであるマリウスは自らの家柄は裕福でありながらも祖父の王政復古賛成派のやり方に不満を持ち革命を決めた若き青年であり、彼もその友の大学生たちもその若さで革命に燃えていた。ある時マリウスはコゼットと偶然出会い一目惚れする。一方のコゼットも同じ感情を抱き、マリウスは革命と愛のオルタナティブに悩んだ。
また密かにマリウスを愛する宿屋の娘エポニーヌはマリウスがこの気持ちに気づかずコゼットに夢中になっている姿をはたから見て心からは喜べないでいた。そして名曲ON MY OWNを雨の中歌い、彼女はマリウスに向けられた銃を自分に向け身代わりとなる。ご丁寧に後ろの壁には”MORT”と書かれトムフーパー監督の過保護っプリが炸裂する。ちなみにマリウスが眠りにつきジャンが祈るシーンでもバックには大きな目が描かれており神の目は二人の安全を見守るととれる。

ジャベールは市民のふりをしてモグラとして潜伏していたがばれてしまい拘束された。そこへジャンが来て自分に手を下させてくれと頼み、彼はジャベールを開放する。ジャベールは取引のつもりだろうが私は追い続けると屈しない強気な姿勢を固持しているが、ジャンは「君は何もわかっていない。俺は悪党じゃない。君は自由だ。恨みはない。君は職務を果たしただけだ」という言葉を投げかけ空砲を放つ。この言葉によりジャベールの中で何かが動く。

六月蜂起が始まり、若者たちは戦う。しかし市民は誰も加戦せず結局はみな命が惜しかったのだ。本当に体制を変えようという若者、また子供までが政府の鉄の塊によって無残に打ち破られてしまう。ジャンは過保護であるため愛娘のためにマリウスを抱きかかえ下水から逃げ延びる。しかし下水を抜けた先にはジャベール警部が立っていた。しかし彼はジャンに対して引き金を引くことができなかった。捕まえるチャンスは何度もあったし殺すこともできた。そしてようやく殺せるはずであったのにここで殺すことは正義なのか?自分は法の具現化であり自身こそが法
であるはずなのにその結論は正しいとはいえなかった。彼は歌う。
正しいのはどちらか一人だ。固い信念が揺らいでいる。
やつは俺を殺した。
落ちていく星・・・おれには絶望だけだ。
ジャン・バルジャンの世界から逃れたい・・・
彼は最後の最後まで二元論という中間のない地獄によって自らを縛り上げた。そして今まで星のごとく見下していた冒頭の造船場から投身自殺する。その水面には星が反射する。ジャベールは星になったんだナ。

すべてが終わりマリウスとコゼットは結婚することとなる。父親最大の悩み娘の略奪。避けては通れぬ道でありジャンは過去をマリウスに話し、修道院へと身を隠す。そしてそこで誰にも知られず死にゆくことが務めだと思い込む。しかし結婚式の際、下水でマリウスを助けたのはジャンだということを知ったマリウスはコゼットとともにジャンの元へ行く。愛する者に囲まれ、自分を追う者もなく、務めを果たしたジャンはファンテーヌとともに希望の明日が来る世界へと帰依する。

ジャンバルジャンのストーリーを通しての務めとは愛を与えるということである。愛すということは許すということでもある。隣人を愛す。汝の敵を愛す。与えなさいそうすれば救われる,,,冒頭で神父がすべてを与えたことがすべての答えであり、愛をフランスじゅうにまき散らすのがジャンの使命であった。許すということは難しい。人は欲にまみれている。粘液のようにまとわりつき岩のように固い。自分が救われることを第一に考えてしまう生き物だ。しかしそれは我々の原罪であり、生まれつきの性なのだ。新約にパンと魚という例えがある。イエスと弟子は少しのパンと魚を持っていた。村には飢え苦しむ人が沢山いて彼らのためにそれを分け与えた。パンは何個にも増え魚はあふれんばかりとなった。イエスは別に超能力を使ったわけでもデリバリーを頼んだわけでもない。村人が助け合い自分のパンや魚を提供しあったのだ。見返りを求めるのではない。友を愛すということをしただけなのだ。


ジャンが仏教の悪人正機と重なった。根底にあるものは同じであろう。しかし私はジャベール警部が主人公であると感じた。もっとも人間らしく我々に近い。しかしながら十戒に反する自害をしてしまったがために黄泉の国にジャベールの姿はなかった。気付かないところであるがキリスト教の排他的な不条理な部分が見え隠れする。信じない者は救われない。十戒に反するものは救われない。宣教師がかつて日本に来た際、キリスト教はあまり広まらなかった。なぜなら日本人は先祖を大切にする民族であり、今までキリストを知らず死んでいった先祖たちはみな地獄行きなのかという問いかけを誰もがしたからだそうだ。パラドックスはいかなるものにも存在するが、私はペイガンを信じる。


全体を通して笑いあり涙ありアクションもあるし教養もある。CGも最新鋭のものであるし間違いなくアカデミーものである。逆を言えばそれだけのことである。
アカデミー賞とは大変なものである。今までの俳優生活や数々の苦労が認められたトロフィーである。しかしこれはノーカントリーと比べればなんてことはない。美術の授業で誰からもうまいといわれ先生にも評価され学内広報にも載った。しかし私はまったく面白くなかった。トムフーパーはこれでよかったのか?今まで宇宙人とかチェーンソー男とかB級を撮ってた監督がそれこそ神に生まれ変わることを誓ったのか英国王のスピーチとか模範解答を作り出した。どこか腑に落ちない部分がある。