2014年4月20日日曜日

【映画】未来世紀ブラジル

1985年に公開された映画をいまさらわーわー騒ぐのもおかしな話だがこの映画は正直言って全人類必見の面白さ。
ラスト抜きではレビューできないのでネタバレありのあらすじ。

あらすじ(超長い)(ネタバレ)
クリスマスの夜。冒頭から70sポップな音楽とテレビのポップなノリがテロにより爆発。こわれなかったTVでは情報省次官のヘルプマン(ピーター・ボーガン)が、情報管理の重要性を力説しているところを写し出している。
シーンは変わり情報省の官吏がオフィスに現われた虫を追いかけ、はたき落された虫がタイプライターの上に落下。おかげで、タイプ中の容疑者の名前がタトル(Tuttle)からバトル(Buttle)に変った。平凡なバトル一家に情報省の連中が闖入し、有無を言わせずにバトル氏を連れ去った。上の階に住む女トラック運転手ジル(キム・グライスト)は抗議するが、相手にされない。
情報省記録局ではカーツマン局長(イアン・ホルム)が、局員のサム(ジョナサン・プライス)にバトルの件について問い正そうとして、彼の欠勤に気づき怒る。その頃、サムは銀色の羽根をつけたヒーローに扮し、美女と出会う夢をみていた。局長の電話で起こされて情報局へ。そこで、抗議に来ていたジルをみかける。彼女は夢の女性そっくりだった。サムの母アイダ(キャサリン・ヘルモンド)は整形外科医のオフィスで治療を受けつつ、息子の出世欲のなさをなげき、裏から手を廻して昇進を画策したことを認め、友人の娘シャーリーと彼を一緒にさせようとする。
サムのアパートの通気口が故障し、セントラル・サーヴィスに電話するが、夜間の修理はしないという。と、そこへ武装した男が来て、タトル(ロバート・デ・ニーロ)と名乗り、非合法の修理屋だと自己紹介して修理した。公式にはセントラル・サーヴィスしか工事をしてはいけないのだが、書類仕事が嫌でもぐりの修理工をしているのだそうだ。
サムはバトル家に検束費用の超過分払いもどし小切手を届けに行き、ジルを見つけた。アパートにもどると、セントラル・サーヴィスの係員が勝手に入り込み、タトルにやらせたなと怒る。
その夜、彼はまたヒーローになってサムライ・モンスターと戦う夢をみた。ジルのことを知るために、情報省検束局への昇進を承知した。そこでは旧友のジャック(マイケル・ペリン)が容疑者を拷問し、白衣を血だらけにしていた。ジャックはバトルの誤認逮捕を隠蔽するためにジルを拘留しなくてはという。サムは僕にまかせてくれといい、受け付けにまた抗議に来ていたジルを連れ出す。彼女は彼を信用しない。デパートでの爆弾テロ騒ぎにまきこまれてしまい、ジルと別れ別れに。アパートに戻ると部屋全体が巨大な冷凍庫と化し、セントラル・サーヴィスの係員が勝手にいじくっており、サムは強制退去される。そこへタトルがそっと現われメカをいじくり、中の係員に汚穢をひっかける。
ジルと再会して楽しい一時を過す。翌朝、彼はつかまった。拷問室でジャックによる拷問が始まろうとした。そこへタトルが仲間と現われ、銃撃戦の末に救出。逃避行の末ジルの運転するトラックで二人はのどかな田園へ……
が、一転拷問室に戻る。逃避行は拷問に耐えかねたサムの空想だったのだ。廃人となったサムをみつめるヘルプマンとジャック。二人が去った後拷問室にはサムが口ずさむ「ブラジル」のメロディが響き渡るのだった。


ベースとしてあるのはジョージオーウェルの1984およびその映画版だと監督のテリーギリアムも語っている。1984ではビッグブラザーのもと情報統制化社会で国家の意向により情報は削除、捏造され個人の自由、知る権利、プライバシー権は一切ない世界を描いていたが、今作未来世紀ブラジル(以降ブラジル)ではビッグブラザーのような独裁者は存在せず政府としての形があるのみ。また1984では終始重苦しい雰囲気でおまけにラストはビッグブラザー万歳なんて調子だから救いようがなくあまり人気がない。しかしブラジルではさすがはモンティパイソンクルーのテリーギリアム監督だけあってクスッと笑えるブラックユーモアが満載でラストの救いようのなさは同じくあるが(社会風刺作品なのでそれは避けられない)幾分楽しんで見られる。
見てまず思ったのはノリが『デリカテッセン』に近い。部屋中にダクトがあるからかもしれないが、レストランで食事中にテロリストによる爆発があるのに焼きが甘いとか言って見向きもしないあたり超ブラック。しかもメニューなんかは百科事典ばりにでかくてコードが付いててタッチパネル式!iPadってこっから着想を得たのでは?と思ってしまう。(でも出てくる料理はどれもペースト状で料理の味がするだけのもの)

あとは近未来ってこともあってアイテムが面白く、自動でパン焼けてコーヒー入れてくれたり(でも壊れててパンにコーヒーかかっちゃう)スーツが勝手に出てきたり、メールなんかはタイピングマシーンで打った紙をダクトに設置して吸い上げるというなんともハイテクなんだかアナログ何だかわからない作り。


テリーギリアムが未来世紀ブラジルで伝えたかったこととは何なのか?
ソイレントグリーンや1984、最近だとエリジウムのような利便化された近未来社会とその影の懸念みたいなものはもはや何本も映画として作られてきた。よくあるのは便利になっても失ってはならないものあるよねってパターンと利便化が進むとこんな恐ろしい結果になるよっていう二通り。ブラジルではそれら二つを踏まえつつ、どんなに情報が統制されようと頭の中の逃げ道は制御できないこと、またそれを奪われたらおしまいだと言いたいのではないか。サムは最後妄想によって自分の思い描いたハッピーエンドにより自分なりに幕を閉じる。しかし肉体においてのサム尋問により破壊され生物学的な死を迎える。想像できることに実現できないことはないとよく言うが、どんなに社会が便利になり進化しようと、人の脳内のイマジネーションを超えることは到底無理なのだ。ハエ一匹によりシステムが狂ってしまうもろい側面を持つコンピューターに対し、それに対する妄想世界は拷問や尋問にも打ち勝つ力を持つ。映画ショーシャンクの空にでも、独房に入れられた主人公を救ったのは頭の中のクラシックだったのだから。だからこそこの映画での妄想世界は手の込みようが半端ない。
映画配給会社は客足が遠のくということでハッピーエンドバージョンで公開しろと命を下したようだがテリーギリアムがこれに猛反発しバッドエンドと二つ設けることになったという。バッドエンドじゃないと先に起こるっ我々の地獄に対する批判にならないのだから怒る理由も分かる。


テリーギリアムと聞いて映画監督として知ってる人と(12モンキーズ、ラスベガスをやっつけろ)モンティパイソンサイドの人と二通りいると思う。私は後者なのだがホーリーグレイルを見てこいつらは大人のくせしてガキみたいなやつらだと子供ながら感じた。しかし今観返すと歴史をしっかり踏襲してるし、ブラックユーモアの良さが分かるから不思議だ。人生狂騒曲なんかんもなかなかおもしろい。そんなコメディ出身のギリアムだからこそ映画の中はどことなくコントみたいな雰囲気が漂うし、社会風刺の内容であっても幾分安心して見られる。近年日本でも北野武を筆頭にまっちゃんや品川がメガホンを持つ。ここで共通項として考えられるのはシリアスと笑いは紙一重の関係にあるのか?たけしもその男凶暴につきは名作だしアウトレイジなんかもヒットした。以前友人に聞いた話によるとホラー映画の現場は笑いが絶えないそうだ。一方で間が大切な笑いの撮影ではピリピリとした空気が流れるという。思うに笑いを求める人間は普通の人間とは着眼点が違うのだろう。たまにとんでもなく面白い人に出くわすと、この人頭の中どうなってんだろうなんて思う事がある。机の上にリンゴがあったとしてそれをただあると見るか、リンゴに机がくっついていると見るか、そのちがいではないだろうか。またその見かたを普段からしているコメディアンは社会をちょっと違った視点から観ているから風刺もできるのかもしれない。



そして最後になぜ未来世紀ブラジルというタイトルなのか。
映画ではブラジルなんて一秒も出てこないし南米感は皆無だ。これは、監督のテリーギリアムのインタビューによると、彼がイギリスのある工業都で撮影をしていた時、夕日が沈む薄汚れた海岸の景色を眺めながら、こんな場所でも楽園をイメージさせる音楽を聴くことで、一瞬でもブラジルの美しい砂浜にいる気分なることは可能なのか?そう思った時にイメージされていた音楽が、1939年の世界的ヒット曲「ブラジル」だったことからきたのだそう。映画ではこの曲が流れるのだがちょっと異様だ。あまりにも世界観と合わないから。しかしそれが正しい。なぜならテーマとしてあるのは妄想。音楽やタイトルが暗示しているようにブラジルとは現実とはまったく違う逃げ道だったのだ。
しかし何も知らずタイトルだけ聞くとブラジル人に支配された世界なのかななんて混乱を招くから未来世紀ボサノバとかでも良かったんじゃ?