2014年12月19日金曜日

【映画】ゴーンガール






 
 
テンポよくリズミカルにダーティなネタをショットガンが如く冷酷に毎回ぶち込んでくるデヴィットフィンチャー。今回もその威力は強大かつ広範囲に風穴をぶち空けた。個人的な見解だがフィンチャーは多分この世が好きじゃない。すごく冷たい目で卑下している。また一方ですごく頭の悪い言い方だがフィンチャーはインテリだ。映画から滲み出ている。ここまで漠然とした感覚での評価しかしていないがそう思う所以を書いていく。
これは良質なホラーコメディだ。誰しもが思う。こんなやべえ夫婦いるかよwwと。しかし気づいてないかもしれないが誇張していたとしてもこれは誰しもがありうる話だ。


ソーシャルネットワークでは早口天パ芸人ジェシーアイゼンバーグを起用しFacebookのCEOマークザッカーバーグの最低で壮絶な設立ストーリーをテンポよく仕立て上げた。伝記物やこういった類のストーリーは退屈になりがちだが常人離れした見事な会話劇と、キャラクターの濃さを活かし大ヒットに導いた。またドラゴンタトゥーの女ではルーニーマーラをダークなハッカーに仕立て、冷たく温度のない殺人のおぞましさを原作のイメージを壊さずリメイクした。
セブン、ファイトクラブ、ロードオブドックタウンと、どの作品にも共通して言えるのは全く飽きない、そして高品質。全ての作品に妥協を感じられず、間違いない作品を生み出してきたデヴィットフィンチャー。
そんなデヴィットフィンチャーだからこそ今回のゴーンガールも期待値を高めに鑑賞。
予告を見た段階である程度オチを予測していたのだが、それは遥か序盤で通り過ぎ、期待を裏切られた(いい意味で)。


まず予測していたのはマスコミの煽りによって主人公が狂わされていくというシナリオだ。これは中盤で使われる。それ故に私のキャパを超えた後半はこの後どうやって風呂敷まとめんの!?と食い入るように見ていたがさすがはフィンチャー、全てを一つにまとめ、そして冒頭に繋げるというまたにくい演出をしてみせた。
それもマスコミに踊らされるアメリカ人のバカさ加減を織り交ぜながら描いていたのは笑えた。テレビが右へといえば右へ、左へといえば左を向く。アメリカは日本よりマスコミのあおりが激しい。コメンテイターはことを大げさに説明し司会者は5倍くらい盛った話をして視聴者を喜ばせる。フィンチャーはその現状を痛切な批判を交えながら描いた。
ナンシーグレイスショーという番組がアメリカにある。未解決事件や失踪事件を番組が勝手に独断で裁きを下すというもの。それもすこぶる過剰で、二歳の子供が行方不明となった母親に対してお前あが容疑者だろうと責め立て、その結果母親は自殺に追いやられた。おそらくナンシーグレイスショーのような過激な番組がゴーンガールのもとになっている。



正直ネタバレなんかはここに書かなくても見れば分かるのであえて書かないが、見終わって思うのは男と女は全く別の生き物ということ。同じ哺乳類であっても男が完全に女性に社会的な地位で勝てても、家庭では女性が君主になる。誰だってそうだ。そうやって古来から成り立ってきている。そのヒエラルキーが成り立たない家庭は崩壊する。だからこそ結婚に人々は苦悩する。俺はこいつで良かったのか?と。
男女の関係を経験した事があるなら誰しも共感できる意見の食い違い。なんで意見がこうも食い違うのでしょうね。それは男と女は違う生き物だから。こう考えるしかない。
エイミーのこれが結婚てもんよというセリフ。恐ろしいけどあれこそが真実。
男女のカップルがデートでゴーンガールを見に行くことはリスクが伴うが必要だろう。なぜかって?男は浮気したら嫁は失踪しかねなくなるからだ。

 
二時間半という長丁場ではあるがそれを感じさせない洗練されたフィンチャー空間を映画館で楽しんで欲しい。人によってはスカッとし、人によっては恐怖を覚え、ある意味パーソナルな映画だと言える。 
ゴーンガールのタイトル、行方不明の妻はもちろんだけど、イカれた妻とも取れるから面白い。
 

2014年12月17日水曜日

【映画】フューリー






生涯で見た一番恐ろしい映画はプライベートライアンである(ちなみに2位は小野寺の弟、小野寺の姉)。ジュラシックパークやスターウォーズを見て、スピルバーグ監督はなんと冒険心とクリエイティブな魂に溢れている監督なのだろうと満ち足りていたが、同監督ということでプライベートライアンを見てどん底に落とされた。吹き飛ばされた自分の腕を持ち頭がイカれて右往左往する兵士、臓器がはみ出てママ〜と叫ぶ兵士、戦車で木っ端微塵になる兵士、狙撃兵同士の静かな戦い。まるで今まで優しかった近所のお兄ちゃんが実は犯罪者だったくらいの衝撃である。プライベートライアンにより私は戦争の無慈悲さを学ぶ。
またキューブリックのフルメタルジャケットで戦争の下劣さを学ぶ。それも説教的なセリフや主人公補正的な物を完全に削ぎ落とした徹底的にリアルな物によって。

戦争は人類が本来備え持つバイオレンスの精神が生んだ文明人の交渉の形だ。我々は物を保有するという概念を生み出して以来、奪い、吸収し、国家を形成してきた。結果として人類は言語とバイオレンスにより強者になったといえよう。
その避けては通れない戦争という分岐点を語る映画は数多くある。ミリオタ万歳な兵器や銃が盛り沢山な映画もあれば、戦争を淡々と語る映画、あるいは戦争はあってはならないと教訓的に語る映画。挙げればキリがないが毎年数多く量産され消費される。
今回のフューリーもまたその数多く量産されるB級映画の一つのなりえた。しかし結果としてそれは今までとは逸脱した究極の戦車映画としてデビッドエアー監督に生み出される。

あらすじ
1945年4月、ナチスがはびこるドイツに総攻撃を仕掛ける連合軍に、ウォーダディーというニックネームのアメリカ人兵士がいた。カリスマ性のあるベテラン兵士である彼は、自らフューリーと名付けたアメリカ製の中戦車シャーマンM4に3人の兵士と一緒に乗っていた。敵国ナチスは追い詰められ女子供も兵士として使うほど緊迫した状況下にあった。そんなある日、ウォーダディーの部隊に新兵ノーマンが加わることになる。


今までと一線を画す要素として一つ挙げられるのは戦車ということにある。ここまで戦車にこだわりきった映画は今までなかった。そもそも映画で使われる戦車は大抵フェイクであり、本物はほとんどが対戦の被害でなくなってしまった。殲滅されてしまったナチスにおいては戦車なんてほとんど残っておらず、今回出てくるティガー戦車なんかも元から生産された台数が少なかっただけに皆無に近かった。しかしイギリスの戦車博物館にほぼ新品の状態で保存されていたティガー戦車の存在を知ったエアー監督は何とか使わせてくれと頼み、今回映画内で本物の戦車が使用されることとなった。私は熱心な戦車オタクではないし仮にシャーマン戦車が抽選で当たって自宅に届こうが物置にしか使わないだろう。しかし日本のミリオタは大歓喜らしく、フューリーの評価は非常に高い。

私が評価したいのは役者の演技だ。いや、演技の姿勢といったほうがいいか。
ブラッドピット達の五人のメンバー(1人は死んだ)は長らく大戦を戦車の中で共にし、日々死を枕にしながら生き延びてきた。そんな極限状態を今までセレブリティな暮らしをしていたのに突然演技として表現するのは無理だということで、一家代々兵隊の生まれのデビッドエアー監督は、ブラピ達一同を戦車の中で寝泊りさせ、また撮影の直前まで殴り合いをさせた。そうリアルファイトクラブである。しかもその様子は一切映画には出てこない。殴り合いをさせ、バイオレンスを身体に染み込ませ、猛々しいエネルギーを身体中から放出するために監督が考えた役作りの術である。シャイアラブーフにおいては気が狂い、自分の顔にナイフで傷をつけたり歯を抜いたりした。結果として彼らは家族となり、台詞や演技の表面上だけでなく本当に昔から一緒にいるかのような連帯感をスクリーン越しに醸し出した。

残念なところといえば主人公補正が強すぎるという事か。2.300のナチスに囲まれても五人で無双するラストシーンは少し無理があるかと思うがハリウッド映画の性質上避けられない。とはいえドイツ側から見たらひどく複雑な気持ちになるだろう。

最後主人公ノーマンは戦車の下に隠れてナチスをやり過ごす。しかし一人の若いSS将校に見つかってしまう。だが極悪非道なはずのナチスはにっこり笑って見なかったことにする。もう敗戦を目の前にして無駄な悪あがきをしない未来の見据えている兵士か、あるいは極悪なナチスも結局は人の子で慈悲だって持っているという意味か、あの若き将校はかつてのノーマンがそうであったようにまだ子供を殺せない殺人マシーンになっていないSSで自分と年の近いアメリカ兵を見てにんまりしたか。結論は見た人間にのみ委ねられるだろう。

ブラッドピットの、「理想は平和だが、歴史は残酷だ」積極的に使っていきたい私生活とかで。
個人的にはラッキーストライクをジッポで吸ってるあたりがドツボ。