2016年8月15日月曜日

【映画】ハイライズ




原作はイギリス人作家J・B・バラードが1975年に書いた長編ディストピア小説。

原作を映画鑑賞後に読んだが、かなり忠実に映像化したと感じた。また同時にこの情報量をあの尺に収めるのはインヒアレントバイスと同じ無謀さがあると思料。

ハイライズ鑑賞中はカンヌだったらロストリバー並みにブーイングの嵐が巻き起こるであろう悪趣味さと、ドラッグをキメた時のトリップのような不可解な映像の連続終始狂ったようなテンションの高さを保った抑揚の無さで、油モノを詰め込みすぎた弁当を食ったような胃もたれを観終わってから存分に感じた。
どうやらそれは自分だけではなかったらしく、エンドロール後の劇場はため息と分析に困った評論家で溢れ、とあるトムヒドルストン目当てで来たであろう女性は「これは本を読めば分かるものなの?」と映画の難解さをこぼしていた。


大枠としてはとてもシンプル。
国家あるいはコミュニティのヒエラルキーを、1つの高層ビルに見立て、それを階級ピラミッドの文字通り所得や社会的地位の低い順に住まわせていく。
建築家(ビルの創造主)はこのビルを完璧でしがらみのない”るつぼ”にしたいと述べており、ビルには多くのタイプの人間と生活の為のあらゆる施設が揃っている。
しかしある停電をきっかけに、全体の秩序が乱れ始める。上の階は15分程度で復旧したものの、下の階はいつまで経っても停電のままだというのだ。
夜な夜なパーティで騒ぎ立てる上流階級は湯水のごとく金を使い、電気も水も好き放題だった。その仕打ちを下の階が受けるという流れに不満を持った住民たちは徐々にデモを起こし、上の階に反乱を起こす。

一方で上の人間達も格の差を見せつけるとか言ってインフラを断つことで仮装階級の生活基盤を奪い根絶やしにしようとする(経済制裁)。
争いはやがて上と下だけではなく男と女、持つもの持たざるものと形を変え、人の性を掻き毟る。エロもグロも一緒くたで、それはまるでイタリアのカルト映画『ソドムの市』とあまり相違ない。


主人公ラングラーはカオスになったビルに対して至極冷静で外野的だ。ジムがめちゃくちゃに荒らされようが、残ったマシーンでいつも通りのトレーニングをする。食べ物も無いようなカオスなスーパーマーケットでも目当てのペンキ缶を持って出て行く。人の波をかき分け仕事から戻り、また車に乗って仕事に行く。まるで押し殺し自分を偽るかのように。
彼は何故巻き込まれないのか?あるいはなぜ関わろうとしないのか。

彼の仕事は外科医であり教授だ。
彼の周りはあまりに彼のことを知る人間が少ない。家族、友人、恋人の描写はなく、(原作では妻と離婚したという箇所があるが作中では白黒の写真で未練を表しているのみ)、仲間外れの少年だけが唯一彼が心を開いている対象である。
人の頭の皮に指を突っ込んで頭蓋骨から引き離し、淡々と解剖について説明をする。彼自身の日常がすでに非現実的なものであり、大衆とは離れた場所にあった事がコミュニティに影響されなかった1つの理由だろう。

またJBバラードがこのハイライズを書いた時代、次々に高層ビルが出来ていったそうだ。それは人がお互いと干渉し合う時代から、関わらない事が最善というドライな時代に移行している事を察知したのかもしれない。
内装に感心するトムヒ


また彼は意識的に俗世から隔離していた
めちゃくちゃになったスーパーマーケットで食べ物を探すのかと思いきや、彼は一つのペンキ缶を手にし、暴徒を殴り倒してまで死守する。
そのペンキを部屋中に塗りたくり、自分にも塗りつけた上に隣人にどうだと披露する。
彼はビルの人間が暴徒になったりコミュニティを作っても、一定のリズムも保ち(仕事やジムのマシーン)、自分の色を持ち続けること(水色のペンキ)で周りに流されず自我を保った。

結果的にそれはあのビルで生き残る事ができる理由になる。
しかしそれは物事に対し一切干渉せず存在する事がビル(現代社会、ないしはこれからの社会)で生き残る術となる。
寂しくもそれは事実で、周りを見ればそれは間違いでは無いと分かる。この情報過多、モノにあふれた現世で、いちいち物事に流され扇動されていては正直キリがない。原作は70年代に執筆された作品であるが、ソイレントグリーン同様、見事に未来を見透かしていたと言えよう。


これまでトムヒドルストン無いしはイギリス俳優に興味は全くなかったが、トムヒドルストンの演技の幅に驚いた。激昂するかと思いきや踊り狂い、情動を逸した行動を読み取れぬ表情でこなす。アベンジャーズみたいなブロックバスター物も良いが、こういう世間に対するアンチテーゼの塊のような映画で光る俳優は本物と言えるかもしれない。

2016年7月10日日曜日

【映画】インデペンデンスデイ リサージェンス








あらすじ
1996年に製作・公開され、世界中で大ヒットを記録したSFパニック超大作「インデペンデンス・デイ」の20年ぶりの続編。エイリアンの侵略を生き延びた人類は、共通の敵を前にひとつにまとまり、回収したエイリアンの技術を利用して防衛システムを構築。エイリアンの再来に備えていた。しかし、再び地球を目標に襲来したエイリアンの兵力は想像を絶するものへと進化しており、人類は為す術もなく、再度の絶滅の危機を迎える。

ここしばらくの間、少ない脳みそをを絞りきらないと理解が十分に出来ないような、難関で癖の強い単館系の映画ばかり見ていたこともあり、90年代に一世を風靡したブロックバスター物である本作はたまらなく響いた。ストーリーが今までと変わらないとか、誰が主人公か分からないとか、正直そんな事はどうでもいいし、もはや観る前からそんなことは分かりきっていた。
映画に求めるものは人それぞれ違うし、だからこそ様々な映画がカルトとして後世にいつまでも残り続ける。クソ低予算映画を取り憑かれたかのようにいつまでも観続けるようなフリークスも居れば、映画を見ているのか勉強中なのか分からなくなるようなインテリドキュメント映画オタクも居るのだ。結局、大衆映画―所謂インデペンデンスデイを筆頭とした誰が見ても何となくカタルシスを得られ、なにかすごい映画を観たと感じられるブロックバスターものは、映画オタクからすれば
安直ひねりもなく旨味調味料と保存量てんこ盛りのファーストフードのような愚かさと評される。
90年代はそういった街一つ破壊する爆弾のような大ヒット映画が大量に作られ、(ターミネーターやトップガンなど)我々の心を鷲掴みにした。しかし00年代に入りそういったIQ15でも楽しめる映画を観てきた映画オタクたちはそれを否定し、難解で説教じみたマイナーな映画に傾倒し始め、文字通り過去を否定し始めた。

昨年から今年にかけて90年代の続編ラッシュが始まり、スターウォーズを皮切りにジュラシックワールドなど、やっぱ90年代っていいよねと帆人は懐古し始める。ちょうどファッションの20年周期のように。

スターウォーズもジュラシックワールドもバージョンアップしたが、インデペンデンスデイは何も変わってないという評価が多かった。前者は確かに時代に合わせたバージョンアップがされていたと思う。例えるならばiphoneが5から6になって機能が刷新されるのに対し、インデペンデンスデイはiphoneそのものが50インチくらいでかくなって中身は一緒といった感じだ。
一緒なのはシーンだけではなくキャストもほとんど一緒。ウィルスミスは残念ながら出演していないが、代わりにIt Followsのマイカモンローがウィルスミスと同じタンクトップ姿でタフに戦う。葉巻はくわえてくれなかった。



内容に関して異論はないが、トランスフォーマーみたいに中国シネコンラッシュを意識したキャスティングとステマはどうかと思うがね。そしてなぜいつもステマは牛乳なんだ!

世間的な評価はいかにせよ、私はエメリッヒがそれを望んでいたからそうしたのだと思う。露骨に星条旗を掲げ、フィアンセに愛してると臭いセリフを放ち、期待を裏切らないメインキャラの死亡フラグとくすっと笑える小ボケの数々。それは我々をあの頃にそのままタイムスリップさせてくれる貴重な時間だった。
無論、これをあと3回くらい繰り返されれば、さすがの私もエメリッヒをひっぱたくことになるが。

2016年6月25日土曜日

【映画】エクスマキナ





有史以来人類は支配者を取っ替え引っ替えしながら現在に至る。かつては清王朝、イギリス大英帝国、あるいはオスマン帝国やローマ、ナチスなど、その時代毎にボスは変わっていった。しかし傑作CGアニメミニオンズでも語られていたように、君主というのは長続きせず、一度頂点に立つとあとは降下するか滅びるかしか道はない運命にある。今はアメリカが事実上の支配者となっているが、それも時間の問題というのは明瞭である。ましてやそもそもの人間が支配者であるという当たり前のヒエラルキーも、今や終わりを迎える可能性が浮上している。
===人類の進化について===
人類は生産性の向上のため歯車を発明し水車を作り農耕を一気に飛躍させ。
その歯車を活かし、風車を作り、エジソンのコイルと合わせて電気を生んだ。
電気と歯車と0と1で、コンピュータをチューリングは生んだ。
そしてコンピュータは無限の可能性を秘め、人類の生活を便利で豊かなものにする、はずだった。
青写真では。
コンピュータは事実無限の可能性を秘めていた。それ単独で活用するのではなくオブジェクト指向であるがゆえに、ネットワークと接続したり、ソフトウェアを変えたり、ハードウェアをアップデートしたりと、各人のニーズによってどうにでもなる魔法の箱だった。しかしその魔法の箱は同時にパンドラの箱だった。好奇心から開いたその箱には想像も出来ない災いが詰まっていた。人工知能である
人工知能という言葉はずいぶん前からあった。V.Bush の“As We May Think”では将来コンピュータが人類の生活を助けると語ったのは1945年終戦の年、言わばアランチューリングのチューリングマシンが改良され軍事力としてのコンピューターが莫大なバジェットで研究され発達し生活に適用し始める日の出の段階だ。1950年にはロボット三原則が発表され「人間を傷つけてはなならい.傷つくのを看過してはならない」「第1原則に反しない限り,人間の命令に従わなくてはならない」「第1,第2原則に反しない限り自分の身を守らなくてはならない」というかなり具体的なレベルまで引き上げられる。しかし実現性はこの段階では到底及ばない。
しかし最近になって人工知能の認識と利便性、そしてその脅威についてあちこちで多く語られるようになる。大きなインパクトとしてはIBMのワトソンが有名だろう。クイズ大会で優勝し、様々な食べ物のデータから料理を自分で考え生み出すという知能を持つ。ワトソンだけでなくチェスや将棋に人間に勝てるAIや、最適で効率的な業務指導をするAIなど徐々にその頭角を現し始めている。
36.8ペタフロップス。人間の脳の約二倍のスピードで動作するスーパーコンピュータ上であるAIは自分を進化させ続けている。ビジーチャイルドと呼ばれるそのAIはインターネットに接続し世界情勢や数学、芸術や化学に関する人類の知識を収めた何エクサバイトものデータを収集し続け、知能爆発を引き起こしそうになる。そしてこのAIはついに人類の知能レベルを超えたのだ。それを人工汎用知能(AGI)と呼ぶ。AGIはわずか2日で人間の1000倍の知能を持つようになり、その後もまだまだ進化し続ける。人類はすばらしい偉業を成し遂げた。果たして本当にそうだろうか?
『人工知能−人類最悪にして最後の発明』の著者ジェイムズ・バラットは以下のように語る。
”AGIは「自意識を持ち、自己進化する」コンピュータである。人間と同等の思考をする、つまり「自己を認識」する。すると自然に「自己保存」の衝動が生まれる。SFファンでなくとも、伝説的なSF映画「2001年宇宙の旅」で、宇宙船のコンピュータ「ハル」が自己保存のため隊員を抹殺しようとする有名な場面をご存じだろう。”
そもそも火を発見した時点で人類は支配されることが決定していた、といっても過言ではない。道具を使って何かを成しえて言葉を交わせることができる生き物は今のところ人類だけなので、これまで支配される心配は全くなかったが、その人類が自分を破滅に導く道具を作り出してしまうとは愚の骨頂であり滑稽である。まさに2001年宇宙の旅の冒頭、投げた骨が核兵器に代わるシーンだ。
人類の生活は便利で豊かにはなったが過酷であることは変わらなかった。より早く、完璧で、確実が求められ、肉体に限界が見え始める。あらゆる職業は機械化され多くの人類は職を失っていった。
また人間は情というものが存在し、多種多様でユニークなものであるため良くも悪くも生産性は情に左右される。ともあれば金銭的な欲求は一切なく自己保存しか考えないAIが、自分をシャットダウンしかねない人類を生かしておくだろうか。
閑話休題。
検索エンジンで有名な世界最大のインターネット会社“ブルーブック”でプログラマーとして働くケイレブは、巨万の富を築きながらも普段は滅多に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に1週間滞在するチャンスを得る。 しかし、人里離れたその地に到着したケイレブを待っていたのは、美しい女性型ロボット“エヴァ”に搭載された世界初の実用レベルとなる人工知能のテストに協力するという、興味深くも不可思議な実験だった…。
ストーリーは人工知能ロボットエヴァに対し、さえない青年ケイレブがチューリングテストをセッションごとに行っていくストーリーになっている。セッションは7まで続くが、おそらくこれはOSI参照モデルの7階層をベースにしているだろう。物理層からアプリ層まで徐々に本質を探っていくやり方だ。この映画の非常に面白い部分はここにある。はじめ我々は、青年がAIに対してチューリングテストでコンピュータかどうかテストしていくという考えのもと進んでいくと思って観ているが、セッション6で青年は閉じ込められてもセッションはまだ続くのだ。セッション7で気づくのは、試されていたのは人類であってこの映画で見ているテストは人工知能側のものだったと気づく。騙された我々はAIの脅威はもうすぐそこまで来ていると感じる、という作りだ。
作風はもちろんのことキャラクターとロケーションが目に訴え借るものがある。グーグル的なシェアNo. 1検索エンジンのCEOネイサンは、アホみたいに広大な私有地で一人孤独にAIの研究をし酒におぼれながらクソ真面目な顔して「このアンドロイドはセックスも出来るぞ」なんてぼやく新しいマッドサイエンティストぶりを発揮する。主人公のケイレブは、どう見ても童貞なプログラマといった感じで、どうしたらいいのかわかんない顔の天才である。エヴァに至っては、本当に俳優じゃなくてアンドロイドなんじゃないかというくらい笑顔が偽物感満載で(感情で笑ってない)、実は逆チューリングテストを受けさせられてるのでは?と錯覚するほどだ。
ロケーションについては広大な自然に囲まれた小さなコテージとその地下に存在する最新鋭のハイテクホテルのギャップと共存がたまらない。モダンアートみたいな打ちっぱなしのデザイナーズハウスしかり、モード系のアパレル店みたいな地下の内装しかり。地下については蛍光灯の代わりに15,000個のタングステン豆電球を用いることで独特の作風を生み出しているらしい。庭にサンドバックはマネしたい。冷蔵庫にはウォッカだらけというのもいい。
しかも壁にはジャクソンポロックの『No.5,1948』が掲げてあり、ネイサンは人工知能と比較する。あのシーンは今年度上位に入る最高のシーン。ジャクソンポロックというのは無意識をテーマに意図的な創作ではないが、それは本当に意識がないのではなく、ユングのいう集合的無意識との対話、フロイトの理論に傾倒したダリの偏執狂的批判的方法のように意識化にありながら無意識の美学を追及した。矛盾しているようでしておらず、それぞれが対なようで紙一重なのだ。抽象表現主義というのは写実から徐々に落とし込んでいくように、意識をベースに無意識があるのでアンドロイドにはそれは不可能だろう。なんせ家でけたたましい音を立てて印刷しているプリンターは常に無意識なんだし。だからこそネイサンの言うCase文やIf文で完全にプログラミングされ計算されつくされた「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すペッパーくんのようなスタチューではなく、意識化にありながら返事をするアンドロイド、それこそがしひょうであるとあの絵をベースに胸中を語ったのだ。
「誕生」と「観察」、そして「血」を巧みに結節したアレックスガーランドの監督脚本、手堅くも気高いスコットルーディンの確かな演出、俳優陣の120%の健闘。アカデミー賞視覚効果賞を獲得するのも納得の高品質なホラー映画

2016年4月26日火曜日

【映画】レヴェナント

復讐劇の魅力。
それはカタルシスを得られることにある。
アリストテレスは悲劇のカタルシスを唱え、医学界でも苦痛を浄化する際に用いる。

映画におけるカタルシスといえば、どう考えても乗り越えられない状況や障害を紆余曲折あった後に乗り越える展開が王道だ。


言わずもがな本作は復讐がテーマだが、その対極にあるものは何だろう。

平和、愛、許し、平穏、神、母性、自然?

復讐は人類固有のものであり、その対極にあるのはやはり自然=神なのかもしれない。

そうなると本作では自然という土台の上で、ちっぽけな憎悪がもがくというプロットだと整理できる。
復讐をガソリンにして過酷な環境下で生き延びたというのも一理あるが、やはりテーマを思えば復讐ではなく自然に帰化する(もともと大地はネイティブアメリカンものでありアイルランド系の移民たちはよそ者でしかない)ために生かされていたとも取れる。
結果としてキャプテンとは違いヒューグラスは妻の顔を最後まで覚えていられたのかもしれない。

ソ連の監督タルコフスキーは、朽ち果てた教会を映画『ノスタルジア』で描き、それを自然と神の一体として表した。
教会が無傷で存在することは人口物と自然体の決別であり、2つは全くの両極端であるが、教会が朽ち果てることで二つが一体化する。タルコフスキーはそういった美学をすべての作品にちりばめた。

タルコフスキーは作品において女性を宙に浮かせる描写を好み、自身はそれをセックス以上の愛と述べている。

『鏡』(1972)『惑星ソラリス』(1974)『サクリファ イス』(1986)にみられる「人が空中に浮かぶ」表象は、彼の映画の本質に迫る 重要な要素の一つである。彼の作品には一見、合理的には意味を掴みにくい表 象が随所に溢れているが、まさにそれが観客を魅了することも事実である。不 意に現れる室内の雨、時間軸の変化、淀んだ水のカット、廃墟に表れる白い犬 といった、唐突だが意味ありげな表象の出現は枚挙にいとまがない。これらは 何を象徴するのかという数多くの問いかけに、基本的に監督は、「それらは象徴 ではなく比喩であり、スクリーンの中で起こっていることは現象である」と答 える。
(出典:アンドレイ・タルコフスキー作品における 空中浮揚の考察―時空の超越)

本作では突然妻が浮いたり朽ち果てたカトリックの教会が出てきたり不可解だとは感じるが、事前にイニャリトゥがタルコフスキーのイメージを撮影監督のルベツキに渡していたあたりからかなりタルコフスキーに寄せていく予定だったのだろう。

唐突な隕石についてもタルコフスキーの『ストーカー』で同じような描写があるし、死んだ妻の胸元から鳥が飛び立つという描写も過去に描いている。
以下動画を見ていただければオマージュということが分かる。
https://www.youtube.com/watch?v=cpcdhNq_VPM

タルコフスキーの描写をここまで用いるのはイニャリトゥ本人が尊敬してやまない監督という事と本作レヴェナントでは自然と愛テーマであるがゆえに必要だと感じたのかもしれない。

ここまで御託を並べてきたが、正直言って
「ディカプリオ先生のここまでやります!サバイバル講座」にしか見えなかったのは言うまでもない。ここまで体を張って主張しないとアカデミーは取れないのか。もはやこの世の嫌な役は洗いざらし、なべて演じたであろうディカプリオを、まるでタオルケットで温めてやるアカデミー会員の爺様たちがが目に浮かんだ。

なぜそうまでしてアカデミーがほしいのか全くわからないが、追い詰められた極限状態の人間の目の演技はいつも素晴らしい。









おまけ
熊の正体


2016年4月11日月曜日

【映画】ボーダーライン



一昨年、鉄パイプで殴られて目の前が真っ白になったような衝撃を受けたすさまじい作品があった。リドリースコットの悪の法則(原題:Counselor)だ。足を踏み入れてはいけない領域に軽い気持ちで土足で入り、骨の髄まで吸い尽くされるおぞましい話で、正直人生の10本にランクインするほどの衝撃を受けた。リドリースコットの作品といえば一貫して踏み入れてはならない領域に調子に乗ってずかずかと入り込んだ結果ひどい目に合うという作風が主となる。科学でほかの惑星に踏み込んで大変なことになるエイリアンシリーズや、兵力をもってしてアフガンに攻め入ってボコボコにされるブラックホークダウン、ほかにもブレードランナーグレイなど、いってしまえば苦労する話が多い笑
本作ボーダーラインの監督ドゥニビルヌーブ(名前が覚えられない)はブレードランナーの続編の監督に抜擢された、いわばリドリースコットの申し子なのだ。ブレードランナーといえば私の人生の一作でありあのカルチャーを十分滲ませてふやけさせたのが今の私であり、酸素の次に不可欠な作品である。
それを監督するというならば次の作品は厳しい視点でジャッジするし、さらに言うならばリドリースコットが悪の法則で確立した麻薬戦争作品というひそかなジャンルを踏襲しているもんだから期待値は高まるばかり。
もちろんプリズナーズで社会問題に対して核として存在する問題と恐怖を批判的ではなく至極客観的に描く作風については圧倒され済みだったので普通以上の面白さは得られるだろうという生半可な心持で劇場に赴いた。

いい意味でその期待は粉々に破られた。
いうならば、画面と目玉が金縛りにあったかのように釘づけにされた。
見終わってからどっと疲れが沸き上がったが興奮して映画に対して頭の中で言いたいことを言いまくった。あれはどうやって撮った?あいつは尋常じゃないキャラクターだった、あのシーンはなんのオマージュか?テーマこれだろうか?どういう意図であの構図にしたのか?
普段であれば鑑賞中にあれこれ考えるのだが、今回は見入りすぎて終わってからけたたましく振り返ることになってしまった。
帰り道は幾度となくシーンを思い返してしまうという初恋のような気分を味わった。

メキシコとアメリカ
アメリカは徐々に大麻の規制が外れごくわずかに医療目的で認可されていたものがだんだんと嗜好目的で許されるようになってきた。
その理由として
①大麻は自然物であり、中毒性も皆無に等しく、害をきたすものではないと研究からわかったため
②麻薬戦争の日を消すため

以上に点が主な理由としてある。

一点目については大麻が極悪ダメ、絶対と刷り込まれてきた我々日本人にとっては目から鱗な話だろうが、古くは日本でも大麻は普通に栽培されていた。それが第二次世界大戦後マッカーサーが来てから大麻は悪いもんだからやめときやと言われ規制された。
映画をよく見る人ならわかると思うが、大麻を吸うシーンはたびたび出てくる。ニューヨークではセントラルパークで昼間から吸ってても警察は特に何も言わないらしい。あのオバマも吸ってたと公言している。→リンク

二点目については興味がある人はご存知の通り、メキシコは麻薬戦争のさなかにある。メキシコは大麻を栽培してアメリカに流しその際のテリトリー争いなどで、5年間で約5万人の人が死んでいるという、もはや内戦レベルの問題になっている。

それを物語るかのように、全編を通してメキシコ人達は目の前の惨劇に逃げ惑うわけでもなく悲しむわけでもなく、まるで日常の一部かのようにすべてを諦めている。毎日何十人もの親族や知り合いが死に、人々は完全に疲弊しきっている様子が伺える。ポーランドのように内戦になってしまえば、難民や他国からの援助など法的な手段を取れるが、麻薬戦争というグレーゾーンな戦いだけに他国も派手にやれないことが難しい問題だろう。

一方のカルテルはといえば人が埋まった壁の前でスマブラやってたり(スマブラかどうかは不明)捜査が来るとわかって鍵の欠けた納屋に爆弾を仕掛けたりと殺戮を楽しんでいる。
悪の法則でもカルテルはワイヤーを巻き取って首を絞める不気味な機械ボリートを使ったり、この仕事ユーモアが大事だよ!といって死体を身内に送り付けたりする野蛮さ。この世界にはモラルなんてものはこれっぽっちも存在しない。

正義とは人にとって都合の良いものを表す。それは政府でも、宗教でも、アメリカンコミックでも語り継がれているので、もはや周知の事実だろう。正義の反対はまた違う正義と誰かのお父さんが語るように、完全な悪など存在しないはずなのだ。
アメリカ人が害悪ととらえる部分はメキシコ人にとっては日常であり、悪とは思っていない。むしろ生活の基盤を奪おうとわざわざ隣国から口を挟むアメリカこそがここでは悪なのだ。
アメリカという国は人の国の政治に口を挟む。イラク戦争ではオサマビンラディンを復讐として殺害した。本来の目的は油だったのだが。
今作でもFBIは国内での問題解決が目的とされているにも関わらず、メキシコのフアレスまで軍隊並みの装備でわざわざ行ってトラブルを起こして帰る。
正義という二面性だけでなく映画では様々な二つの側面とその境界線をクローズアップする。光と闇、アメリカとメキシコの国境、善と悪、男と女。考えさせられるのはいつなんどきも物事は一つの側面から見るだけでは全体図は見えないということ。両方の目を大きく開けることが重要なのだ。









最高のシーンの連続
もはや国内での問題解決にとどまらず戦争レベルの戦いが繰り広げられていると冒頭でも述べたが、ヘリコプターでメキシコの上空を飛ぶカットや、国境線を隊列をなして進む姿は、まるで地獄の黙示録ブラックホークダウンだ。

作中フアレスを「野獣の街」と紹介するように、BGMもまるで獣が喉を鳴らすような低音の地響きがシーンとリンクし緊張感を高める。
住宅街で起こっている事とは到底思えないすさまじい冒頭5分で一気にハイボルテージになり、文字通り最後の最後までピンと張られたピアノ線のように緊張感が続く。硬い椅子で見れば肩こり必至だろう。

プリズナーズでもこの監督は観客の想像力を利用しておぞましさのボルテージを上げる。
例えば人を殴るシーンを映してしまえば上限はそこまでだが、鎖を拳に巻き付けてにらむシーンでカットすれば観客の想像力によって上限はゆだねられる。監督は何も役者に血のりを塗りたくってアクションをさせなくても素材だけ用意しておけばいいのだ。

例えばカルテルトップ2を護送して拷問するシーンでは、ポリタンクを片手に過去に何らかのいざこざがあったことだけを知らされカットされる。その後男がどうなったかわからない。顔に布を乗せられて水を死ぬほどかけられるか、指を一本残らずつぶされるかは観客にゆだねられるのだ。ロジャーディーキンスが以前撮ったノーカントリーでも観客にゆだねられるシーンがあった。主人公の妻のもとへ殺し屋が来て話をして次のシーンでは殺し屋は靴の裏を見る。それだけで妻が殺されて血がついていないか確認しているということが分かる。

この映画で最も恐ろしいのは赤いTシャツに首までびっしりタトゥーの入ったカルテルではなく、モラルを失った人々でもなく、卵とコーヒーが好きな警官の父ちゃんでもなく、ラスボスを殺しても終わらない戦争の原因がそもそもアメリカにあるということだ。普通の映画だったら敵の大ボスを倒せば平和な人々の笑顔がスローで再生されてみんな笑顔でそのままエンドロール。しかし誰一人として喜んでおらず、サッカーグラウンドでは今日も変わらず銃声が響く。ラスボスを倒したところで何も解決せず、本当の脅威は物理的に抹消できるものではないのだ。
最後にタイトルが画面いっぱいに表示される。
そう、まだ何もおわっていないのだ。



2016年4月3日日曜日

【映画】バットマンVSスーパーマン






ダークナイトを初めて見たときに感じたのは、バカみたいにビビットな配色のスーツで世界を救う軽佻浮薄なヒーロー映画がアメコミ黄金時代に量産されすぎて、ここまでデコンストラクトしなければ成立しなくなってきているということだった。

以降ザックスナイダー自身もウォッチメンを通して「監視者を誰が監視するのか」という一歩引きさがったリベラルな考えを映像化し、絶賛された。
ウォッチメンでは最強の男Dr.マンハッタン(本作でいうスーパーマン)と正義でありながら政府のあり方に疑問を抱くリベラルなロールシャッハ(本作でいうバットマン)がヒーローのあり方について見直しており、今後公開されるキャプテンアメリカシビルウォーでもこの考え方を引き継いでいるようだ。


正義の二面性についてはもはや子供でも理解しているように、誰かの正義は誰かの悪であり、万人を救う、万人の正義であることは不可能であるということは世界を見ればわかる。宗教がまさにそうだ。

民族個体に対するご都合主義で作られた宗教の価値観の相違で民族間紛争ないしは内戦が各国で勃発している。さらには主教間の違いはテロを生む。
そういったバックグラウンドを念頭に本作を見ればザックスナイダーの本作に対する意図が見えるはずだ。


自分はワーナーブラザース擁護派の人間なので、色眼鏡で本作を見てしまうが、世界的にはどうやら批判が多いらしい。特に原作を愛しているファンたちの間では一体全体どうなってんのとブーイングしているのがロッテントマトを見ればわかる。
自分は結論から言えばそこまでひどいものだとは感じなかったが、夢落ちとか前半のアクションのなさとか根本的に構成がよろしくない箇所が多々見受けられた。

しかし、9.11を明らかに意識した冒頭シーンや、移民問題を浮き彫りにしたテーマなど、アメリカの現状を反映させながらコミックをベースにして見事に映像化したと感じた。ドナルドトランプがイスラム教徒を入国させないと声高らかに言うのは、移民によるテロの可能性を少しでもなくすためであり、スーパーマンのような宇宙難民が内戦を国内に持ち込むのを恐れているのがまさに現実を反映していた。事実、議会ではテロが起きる。

スーパーマンはクリプトン星の内戦から逃れるために地球にゆりかごに乗せられて田舎の百姓に拾われ、人民を導く存在になる。それはモーゼの生い立ちと同じことであり、作者がユダヤ系だったことに由来する。そして人類を守るため自らを犠牲にする。スーパーマンを下すシーンは名画ピエタであり、後ろには十字架、使うのがロンギネスの槍、埋葬のシーンではアメージンググレイスと超キリスト教的だ。ここまで宗教色を強くするとその方面の人が起こりそうだが(もう怒ってるか)自分は無神論者なので傍観して楽しめた。

なにはともあれ、アベンジャーズのようなコメディ第一ついでに世界救ってますみたいな作風とは裏腹に、終始一貫してくそまじめで、出てくる笑いといえばと言ったらワンダーウーマンをお前の連れ?って言うか、みんなが必死で戦ってるのに一人逃げ惑うバットマンのドリフ感くらいだろう。
おそらくそれはDCとしてのヒット作が一つもなく、どんどん力を強めるマーベルに対する焦りであり、ジャスティスリーグへの布石を意識しすぎた必死感が原因としてある。
一言いうならばWhy so serious?かね。
あとワンダーウーマンイケメンすぎ(5000歳)

2016年3月28日月曜日

【映画】リリーのすべて

LGBTの理解がより一層進み身近なものになっていく。
今年に入ってからすでに3,4作はそういった類の映画が公開されている。

つい最近公開されたキャロルではレズビアンを中心に、批判や差別を乗り越えた二人が美しく描かれた。

今作はトランスジェンダーというマイノリティの人々にフォーカスを置く。
トランスジェンダーとは生まれ持って性とは逆の肉体を持つ人々をさす。劇中の言葉を借りるのであれば神様が入れ物を間違えたのだ。
エディレッドメイン演じるリリーはある瞬間をきっかけに自分は女性の魂を持っていることに気づきいてもたってもいられなくなる。そして世界で初めての試みをするというストーリー。

全編通して意図的に絵画のように見せる映像やしぐさ一つ一つが女性の自然体でしかない演技などため息の出るような映像美の連続でアート好きにはたまらないだろう。

しかし映画というものは不思議と中心となる人物がどうしても補正がかかって擁護されてしまう。
もちろん性転換手術を受けるという勇気は素晴らしいものであるし、人生を放棄する勇気が必要だ。それはともかく、主人公は周りを全く配慮しない。取り残された妻の前で昔興味のあった男に言い寄ったり、結婚していたことをまるで記憶喪失かのように否定したり、悪く言えば都合がいい。

もちろん女性になったからには妻という関係性は少しおかしい。ただそれを切ないラブストーリーという言葉で丸め込めるのはどうかと。

キャロルでも男は総じてくずのように描かれていたが、逆の視点からみると女が勝手なように映る。


一つ一つをピックアップすると素晴らしいが、全体をまとめたストーリーはあまり腑に落ちないものであった。

2016年3月16日水曜日

【映画】マネーショート








事前に内容が難しいという事は聞いていたので、マイケルムーアのキャピタリズム“マネーは踊る”を見て勉強してから臨んだ。

本作で感じたのは、サブプライムローン資本主義のメカニズムから避けては通れないガンであり、人は有史以来目の前の欲に勝てるほど強く作られていないということ、金融界では(あるいは万物は)昨日までの当たり前は瞬きした瞬間に当たり前ではなくなりうるということ。

難しい用語を理解したところで感じることは理解していない状態と何も変わらない。この映画は誰が見ても異常な世界が、少し前に存在していたということを痛感する。

そして一時的な処置を施しただけで、それはまたすぐに発生し得る。

何故なら人は欲に勝てるほど強く作られていないからだ。

サブプライムローンについて理解できない人はおそらく多い。自分もすべては理解していないが自分なりに分かりやすい例を。

2005年にSupremeというブランドが爆発的に人気が出た。店は出せば売れるし、買った人は買値より高く売ることが出来るという夢のような服だった。しかしSupremeは元値が高い。庶民には手が届かない値段だ。だから人々は銀行にお金を借りてSupremeを買った。収入が安定してない中学生ですら金を借りて5着も買った。
いずれ値段が上がるという事で証券会社はSupremeを売る権利(ローン)を買い取った。
証券会社はさらにそれをいくつかまとめてレベルの高い商品(AAA)としてリリースした。しかし実際中身は支払い能力の低い日雇い労働者やストリッパーのローンでありBやBBBというクソみたいな債権で出来ていた。
そしてブームはいずれ去る。Supremeは作られ過ぎた。2007年にバブルが弾ける。
何着も買われたSupremeは差し押さえられ、証券は紙クズと化した。
証券会社は当然見返りのない紙クズを前に呆然とし破産した。
本来は証券は暴落した時の救済措置として保険(CDS)を買うことが出来るのだが、Supremeは安定したブランドという事で誰もCDSは買わなかった。
しかし先見の明を持った1人の男が大量の金をSupremeのCDSに注ぎ込んだ。その考えをいち早く事態の異常性に気付いた数人の変人に知れ渡り、CDSを買い込んだ。
結果として変人たちはSupremeを信用しなかったが為に大量の金を手に入れた。
当たり前になる事はとても恐ろしい。
平和がある時急に脅かされたら?収入がある時途絶えたら?電波が飛ばなくなったら?
それに対する処理を私達はしているだろうか?
忘れた頃に災害はやってくるとは言ったものだ。

フォックスキャッチャーでスティーブカレルはこれまでのコメディアンの仮面を取って代わりに鼻をくっつけておぞましい資産家を演じた。
本作でも兄を亡くして疑心暗鬼になるヘッジファンドを巧みに演じている。
毎度肉体改造で役者魂を燃やすクリスチャンベールは孤独な金融とレーダーとしてアスペルガー的で表現が下手くそなキャラクターを絶妙に演じていた。中でも好きなのは歯を磨いてゴミ箱にペッしたり、メタリカを爆音でかけながら裸足でウロウロする姿。エキセントリックで魅力的だ。ただ単に激昂したり喚いたりする役よりもはるかに難しかっただろう。

本作はアメリカの過去と国民性を巧みに反映する良い材料だ。マイケルムーアのボーリングフォーコロンバイン、アメリカンフードネイション、マネーショートさえ見ておけば、アメリカの根底にある”恐怖”が理解できるだろう。

俺もそろそろ Supreme 売るかな〜

2016年2月21日日曜日

【映画】キャロル







1950年代のニューヨークを舞台に、百貨店のおもちゃ売り場でアルバイトするテレーズ(ルーニー・マーラ、Rooney Mara)が客として現れたキャロル(ケイト・ブランシェット、Cate Blanchett)に惹かれ、恋に落ちるロマンス映画。



本作の背景
1950年代アメリカは第二次世界大戦後、まだきらびやかでもなくソドミー法により同性愛は禁止されており、ましてやキリスト教では同性愛は絶対悪なので許されるものではなかった。

昨今LGBTに対する理解や意識は進み、あるべき姿に忠実であることが重要視されてきた。渋谷区のパートナーシップ条例や、パナソニックの社員規定の改変、アメリカは西海岸の同姓婚認可などまだまだ一般的ではないが徐々に当たり前になりつつある。
1952年に刊行されたパトリシア・ハイスミスの原作がベースとなっており、弾圧を避けるため初は偽名を使って出版されたそう。内容はかなりフェミニスティックで、登場するオスは総じてクズ。しょーもない男だけを抽出したような(いや事実男はどいつもしょーもないのかもしれない)女性にフォーカスされた内容となっている。
それだけに二人の愛が際立って崇高で美しく、いつまでも浸かっていたい、そんな美しい話だ。

二人の美しさをさらに際立たせるのが16mmフィルムで映し出される画。撮影監督エドワードラックマンは以下のように語る。
「今やデジタル処理によって(フィルムの)粒子を作り出すこともできるわけですが、それは固定された画素(ピクセル)に過ぎません。フィルムの物質的な粒子はもっと表現豊かなレイヤーを加え、それは登場人物の感情表現にも影響します。(中略)私がデジタルではなくフィルムを選ぶもうひとつの理由は色の描き方にあります。たとえば冷たい窓と暖かい照明を室内で撮る場合、デジタル撮影ではその組み合わせをフィルムと同じように撮影することはできない。私はフィルムの粒子によって得られる暖かい色と冷たい色の交差や混成をデジタル映像には見出せないのです。現在はクロースアップを撮るのに長いレンズが好まれていますが、サークは25mmか35mmの広角レンズを使って、登場人物を階段の手すりや戸口やセット建築を背に束縛するようにして撮影していたそうです。トッドはワイドアングルのほうが全てが目に入って、圧迫感がでると考えていました。俳優をカメラの視点から逃げ場がないような状態に置くわけです。そうすることで登場人物たちは、まるで今の生活環境に捕えられているかのように、フレーム内での身の置き所を制限されるのです。しかし一度だけカメラが移動し、キャシー(ジュリアン・ムーア演じる主人公)が解放され、ある人物とふたりきりでいることが許される場面があります。それは彼女がレイモンド(黒人の庭師)と屋外で会うシーンです。カメラはそのエモーショナルなやり取りを移動撮影で捉えます。そして彼は彼女にふたりは交流することができないと告げます。そのときのふたりは屋内に閉じ込められていないにも関わらず、互いに隔たれた場所にいるのです」

光がやわらかく包み込むような見え方のするフィルム撮影を採用することで、はっきりとつかめない、でもそこに確かにある二人の愛が上品かつやさしく描かれていたと感じた。



またアカデミー衣裳デザイン賞を受賞したサンディ・パウエルが手がける50年代スタイルがとにかくスタイリッシュで目に訴えかけるものがある。
小物や車などデザインの頂点とも言える50’s。テレーズのファッションの変化が彼女の内面の変化、またキャロルに惹かれキャロルを意識したスタイルになる様が、かわいらしく切ない。


最後、キャロルの口癖である「いかが?」を振り切り「もう私はNOといえる女なのよ」と、自分に素直にならずに若者のパーティに向かうテレーズ。しかし彼女の頭の中には後悔しかなく、自分に素直になることの恐怖と戦っていた。禁断の連らいをすることは生涯が多く待ち構えていることは言わずもがな。それでもテレーズはキャロルのもとへ足を運ぶ。二人は言葉を交わさず目ですべてを感じ取る。
本作のキーワードは目。無垢なテレーズの目と大人になったテレーズの目がまったく違う。キャロルも離婚騒動で振り回されているときの目は普段の妖艶さとは打って変わってティーンネイジャーのよう。