2017年12月31日日曜日

【映画】2017年映画ランキング


昨年に引き続き黄金期の大作映画の続編が多く散見されたが、多くは当時リアルタイムの古参客を集めるための集金メソッドでしかなく、映画界のネタ切れさえも感じさせてしまう一年だった。
が、それに心躍ってしまうのは奇しくも事実。ただの古株集めで終わっているものもあれば、今の技術を存分に活用して刷新したものもあり、ランキングにもそれは強く反映された。
2016年度が全体的に映画不振だったこともあり、今年は良作がごまんと揃っており、おそらく映画をたしなむ人たちにとっては毎週のように見なければならない映画があるような状態で見るのを諦めた作品も多いだろう。

映像コンテンツの動きがこれまでと大きく違う点として、ドラマが映画に負けず劣らずなコンテンツとして確立しつつある事が挙げられる。
もちろんfriendsや24など過去幾度となく訪れた。しかしこれまでのムーブメントと大きく違う点として①制作費が尋常では無いこと、②テレビで一話ずつ見る時代は終わったということが挙げられる。
これまでのドラマはある程度決まったバジェットで制作され、それを上回らなければ打ち切り、うまくいけば何シーズンも続くような、場当たり的な動き方をしてきた。しかし今回のドラマブームは初めから映画の制作費を上回るような巨額のバジェットで製作され、毎週一話ずつ配信されるのではなく、初めから13話までアップされるようなやり方をしている。またどんなに売れていてもシーズン4までしかやらないと初めから決めていればそこで終わるなど、ストーリーを何番煎じもして最後には既視感満載の終わり方をするようなやり方はしなくなった。ゲームオブスローンズやストレンジャーシングスなど、CGや撮影技法はもはや映画に引けを取らないクオリティとなっており、ドラマはもはや映画館で見たくなるようなクオリティだ。

またNetflixに挙げられるような、映画館での上映はせずにストリーミングサービスに止まるようなコンテンツも徐々にうねりを上げてきた。急忙を極める現代人にとって11秒が惜しい中映画館へ足を運ぶのは難しくなっていることもあり、まさに需要と供給のバランスが取れた結果と言える。

そのため必ずしも映画ランキングは映画館で見たものとは限らなくなって来ている。
ましてやドラマと映画の境目すら怪しくなって来た。(その境目は回数というある種人為的な縛りがあるだけである)

とはいえ良作が多すぎたこともあり、ドラマと映画の壁は一応残して置こうと思う。

<<今年度映画ランキングベスト10>>

10位 goodtime
全編ワンオートリックスポイントネヴァーの奇怪なスタイリッシュで脳幹に直接響くサウンドトラックと、LSDをキメたかのような
フラッシュバック的映像美の連続に、ストーリーがないとかそんなことはオプショナルなものでしかなく、理解するな感じろ!というサフディ兄弟の若く強いメッセージを感じられた。NYのゲットーを描いている映画は数多くあるが、あれほどまでにかっこいいわけではなく、小さな昆虫が底力で生きているのをクローズアップしたかのような絵面は強く印象に残った。





9位 メッセージ(音楽満点)
徐々に大御所頭角を現しキューブリックと比較されるまでに上り詰めたドゥニヴィルヌーブ監督のSF大作。正直ブレードランナーを後ろに控えていたこともあり、この作品を見てその結果が決まってしまうような気がしてしまいはじめは観るのに気がひけていた。
今思えばそんぞそこらの監督が撮っていれば地球が静止する時みたいなチープでああそんな映画あったなと忘れ去られていくようなクソ映画になりかねないビジュアルとストーリーを、見事に神秘性を持たせて傑作に変えた。音楽の使い方が秀逸で、これまで触れたことのないとてつもない何かと接触しているという緊張感を終始感じられた。時間という人為的な概念を外して考えるというスタイルは斬新で、後世に語り継がれる作品である事は間違いない。





8位 ネオンデーモン(映像満点)
色盲で色味がよくわかっていないレフンの新作。これもまたしょービジネスの光と闇という使い古された古紙のようなアイディアであるにも関わらず見たことのないおぞましさと美しさを表裏一体にしボコボコにされたような感じだった。
リンチ御大のマルホランドドライブでおそらくこの手のテーマのいいとこ取りは全てされたものだと思っていたが故に、まだこんなに楽しませられますかこのテーマ!と、ど肝を抜かれた。カラフルなチョコレートを振りかけた人間の臓器を金色の額縁にはめて飾っているかのような、会田誠的エログロナンセンスが◎。


7位 ガーディアンズオブザギャラクシー
前作を私は劇場で見なかった。またマーベルの金集めかと無視しており後で家で見て飛び起きた。
こいつああ傑作じゃねえか!!
冒頭から掴まれる音楽に始まり音楽から音楽に至るまでもう音楽が音楽!!


6マンチェスターバイザシー(警察署の自殺未遂演技満点)
昨今の映画は撮影技法もCGも発達しごまかしが効くようになってきている。
ただどんなに時代が変わろうが普遍的なのは演技力だ。こればっかりは何がどうなろうと見透かせる。




5ゲットアウト(全力疾走黒人)
正直開始早々にチャイルディッシュガンビーノの今年のアルバムが流れた瞬間満点にしたかった。
ホラーをいくつも見て来てこれはこう、とある程度フレームが決まりつつある中で、ただ走るだけ、ただ泣くだけがこんなにも気持ち悪く怖いのかと気がつかせてくれた。そう、下手にクリーチャーを見せたり血だらけにするよりも、当たり前が少しずれているのが一番怖いのである。99%が満足しているという謳い文句の通り、観る前は誰も期待しなかっただろうが、昨今問題視されている黒人の過保護問題を見事に汲み取ってホラーという入れ物でテーブルに並べた。調理方法、提供タイミングともに最高のタイミングで最高の結果となった。



4位 ローガンラッキー
スティーブンソダーバーグの傑作オーシャンズ11といえば知らぬ人間はいない傑作だが、
本作はそのオーシャンズ11のインスタント版といった感じだ。
無論、作りがチープだとか話がしょぼいとかそういう意味ではない。
オーシャンズと言えば完璧な計画と完璧なメンバーで敵はおろか我々まで騙し抜く。
一方こちらは最初から頼りなく残念すぎて全然感情移入しない笑
でもその不恰好な姿がなぜか応援したくなってしまうのである。


3位 マグニフィセント(胸熱賞)
七人の侍、荒野の用心棒好きからすればこれを入れないのは罪に値する。
例のごとく全然生き残らないのが最高!!


2位  IT(もうあの頃には戻れないで賞)
小学生の頃の夏休みの思い出といえばチャリで友人と地区センターに競争しにいって駄菓子くって秘密基地を作ってぐっすり眠る。宿題はやらない。その繰り返し。今思えばあれが全盛期だし誰しもがきっとそう。そしてこの映画にはそれが詰まっている。ピエロがどうとかはおまけでしかない。一番怖いのはもうあの頃には俺たちは戻れないのである。号泣である。ブレードランナーに個人的な思いがなければ問答無用に1位。


1位 ブレードランナー 2049(人生ベストランクイン)
個人的な思いが強すぎる作品。早く酸性雨の雨が降り注いで知らない言語が飛び交う薄暗いトタンだらけの世界になって欲しい。


映画については以上だが今年はドラマも熱かったのでドラマベストも。

⭐️ドラマベスト5
1位 アトランタ(人生で見たドラマでNo1
2位 ストレンジャーシングス(あの頃には以下略)
3位 ミスターロボット
4位 ウェストワールド

5位 マインドハンター

2017年11月2日木曜日

【映画】ブレードランナー2049










ブレードランナーを初めて観たのは確か高校生の時だったと記憶している。
元々カルトムービーであることは聞いていたし、SFが好きで好きで仕方がなかったので、観るまでどんな世界が待ち構えているのか楽しみで仕方なかった。
蓋を開けてみると、すでにいろんな映画や漫画(アキラやNY1997)で観たことあるような世界が広がっていた。こういう感じなのか…と多少拍子抜けしたあと調べて見れば、後続の映画はほとんどがブレードランナーを意識しているではないか。そこから一気に引き込まれて何回何回も見た。

人生で最も好きな映画は何かと聞かれると、1本に絞るのは非常に難しいが、本作は限りなくそれに近い。本作の製作がスタートしたと聞いた時は非常にワクワクした。しかしスコットが他の撮影の都合上監督を降板したと聴き、キューブリック信者であると同時にリドスコ信者でもある私は続編の監督がスコットではないことに少し心配になった。
心配の大きな理由としてスターウォーズの続編のフラストレーションに起因する。7作目フォースの覚醒を紐解いた時、そこにあるのは豪華な同窓会だった。もちろんその瞬間は高まりを感じられたが、映画としての目新しさや感動はそこには無かった。

本作ブレードランナーの続編を監督するのは原作の大ファンだというヴィルヌーブ監督。
昨年年間ランキングベストの1位だったボーダーラインの監督であり、映画メッセージでオスカーを取った近年急上昇中の監督である。
彼の作品は共通してアウトサイドよりインサイドにフォーカスした撮り方をする。
どんなにスケールの大きな、例えば巨大な宇宙船が突如現れようが、麻薬カルテルとの悍ましい闘いを描こうが、人の心理描写や形成するマインドを浮き彫りにする。
また当たり前の常識が外的要因の登場により一気に天地が入れ替わり価値観が変わってしまうという作品が多い。ボーダーラインのカルテル、メッセージの宇宙人、プリズナーズの誘拐犯、複製された男のドッペルゲンガー。本作で言えば人間の可能性。

果たして2049でも2つで十分なのか…

ブレードランナーの問いとして、近い将来あらゆるものが入り乱れ、隣にいるのが誰かということはおろか、自分自身が何者なのか見失ってしまうという主題があった。人を形成するものはチープで確証がなく、それゆえに人は自分とは何かを見失いがちである。
それを踏まえればヴィルヌーブ監督は本作の監督をすることは匹敵なのではないかと思い始めた。
ただ、SW同様、同窓会になってしまうようであれば残念なのは事実。大役を任されたヴィルヌーブ。ただこれがマイケルベイとかになっていたら、落胆どころか30歳くらい老けこんでいたと思う。

■あらすじ
2049年、更に荒廃が進んだ地球。人類の生存を確実にするためにタイレル社から製造されていたレプリカントと呼ばれる人造人間が、度重なる彼らの反乱によって倒産した同社の資産を買収したウォレス社によってさらに洗練され、寿命に制限のないモデルに改良されて、人間社会に組み込まれていた。LAPDに属する最新型レプリカント・ネクサス9型であるKは「ブレードランナー」として、かつて反乱を起こしたレプリカントである旧式のネクサス8型を「解任(殺害)」する職務に就き、家ではウォレス社製のホログラフィーである恋人ジョイと過ごす日々を送っていた。
Kは旧式レプリカントの捜査中、ある農場に赴いて反逆レプリカントの1人であるサッパー・モートンを「解任」した際、農場の木の根元に箱が埋まっているのを見つけた。発掘の結果、内部には遺骨が入っており、法医学的分析でその死骸は帝王切開の合併症の結果として死亡した女性レプリカントであることが判明する。生殖能力がないはずのレプリカントが子を産んでいたという事実に、事態は大きく展開していく。


●風景について
冒頭は前作と同じように目の光彩を映してから、現代の動力源ソーラーを映し時代が変わったことを感じさせる。(前作は炎を吹き上げる火力発電のようなものだった)。もはや燃やすものすらなくなって、僅かな太陽の光だけが動力源であることが分かる。
また街並みはホログラムが多く、屋上のみならず人混みの中にも投影するような広告を出していた。相変わらずSONYやPANNAM、Coca-colaが名を連ねるがどこも今は下火。(日の出食堂のインパクト…)
●食べ物について
前作のうどんとかデッカ丼みたいな今と変わらない食事ではなく、おそらくウォレスが作った人工食品(プロテインがまさかの水中にいる虫)で作られた自動販売機で買って食うようなスタイル。
Kが家で作っていた鍋にルーのかけらのようなものを入れたものは、出来上がるとところてんみたいみたいな麺に。あれも虫か何か?

酒については相変わらずデッカードはジョニーウォーカーのブラックラベルを飲んでいたが、グラスは残念ながら前作と同じアルノルフォ・ディ・カンビオではなくなってた。(イタリアの老舗グラスメーカー)






●テクノロジーについて
昨今google homeのような話しかけるとカーテンを開けてくれ音楽を流し電気をつけてくれるようなホームタイプのAIが売られ始めたが、本作ではジョイという女の子が料理を作ってくれたかのように振る舞い、タバコに火をつけ、ダンスに誘う。何より誘ってる方がホログラムなのに、誘われている方もアンドロイドな訳だから、人間の我々はもはや蚊帳の外である

レプリカントは口頭質問の際に目の光彩を確認するだけでは識別できず、2001年宇宙の旅のHALのような、高度なテクノロジーを用いなければならないくらい精巧になっている。またその機械でベーシックライン (機械の基準規格のようなもの)から逸れていないか判断する。まるでアランチューリングのチューリングテストのよう。

役者について

同窓会になっているかといえばノーとは言えないが、ただただ前作のキャストを出して喜ばせようとするのではなく、キーマンとして出していたしトータルで見れば辻褄は合っていたので◎。

ライアン・ゴズリングのキャスティングはハリソンフォードからの名指しらしいが、昨今の活躍を見る限り始めはビジネスの香りがした。ただ見終わって感じたのは、感情があるのかないのか分からないが徐々に感情が芽生え始めてくるような難しい役を見事にこなせていたと思う。おそらく前作のコアなファンからの厳しい眼差しもあるだろうしやりにくさで言えば上位に入ってくるだろうが、余裕のある演技ができていた。ただ全体を通して一人で全てを担いすぎかなとも思う。
また相変わらずスラングで叫ぶのだけど、これまでのゴズシャウトで一番良かったかな?(オンリーゴッドの反抗期の中学生が親に怒られて逆ギレするようなシャウトと比較して)
終盤で登場するデッカードのワンちゃんは本物なのかが本作の最大の謎となったわけだが、ウイスキーをぺろぺろする、本物の木で木彫りを作りたがるデッカードからして、あのワンちゃんも本物なのでは?と思う。人工物だったらライアンゴズリングが来た時点で嚙み殺すようにプログラムされてるだろうし、ジョニーウォーカーを機会が飲むのであればバグだろうしね。

ロビンライトはハウスオブカードといいワンダーウーマンといい管理者ポジションやり過ぎでは?


個人的に解決しなかった問いを以下に考察する。

★考察1
蜂が意味するものとは?
デッカードに会いにKがラスベガスから地上を練り歩くシーンがある。
途中煌びやかな過去を思わせる像が対になっているが、その下に突然養蜂箱が現れる。
闇市のアフリカ系男が言うように、あの辺りは放射線でやられ生物は一切存在しないはず。故に蜂が集める花も存在しない為、あの蜂は本物ではなくフェイクだと言うことがわかる。


ではなぜあそこで蜂を出したのか?前作でレイチェルがデッカードから受けたテストの際に、「蜂が手に乗ったらどうする?」と言う質問で「殺すわ」と答えた。しかしKは大量の蜂が手についても微動だにしないあたりから、レイチェルの子供ではないのでは?と言うキーになっている説。ただ問題として蜂の箱を何に使っていたのか?ペットにするには嗜好からかけ離れているし、生活のためとなると合理性に欠ける。蜂は放射線に非常に弱く放射能が強い箇所には生きないと言われている事から、あのエリアは放射能に毒されていないという意味を出したかった?いずれにせよデッカードが蜂を何かに使っているという設定はあるだろうが、監督に聞かない限りは分からない。

★考察2
ウォレスはどうなった?
ウォレスの右腕ラブを溺死させてんんとか逃げ延びたが所詮は機械。バックアップも取ってるだろうし次の日には下手したらラブは5000体くらいに増えてるかも。ウォレスの最終目標である新人類の繁栄のため、デッカードはまだまだ追われる運命にある。


★考察3
片目の婆ァンドロイド軍団は戦いに備えるか?
Kを救ってくれ残酷な現実を告げたアンドロイド革命軍と母は地下での密会以降出てきていない。考えられるのは再び大停電を起こし、抑圧から解放されるアクションを何かしら起こすだろう。かつて黒人が白人に怒り南北戦争をしたように。

★考察4
LAPD本部長とラブの関係
ラブが本部長を殺した後一筋の涙を流した。また会話の雰囲気から初めて会ったかのようには見えない(部屋に入るなりここは暗すぎると一言)。デッカードはウォレスせいだろうし他にもアンドロイドを仕入れているような発言も本部長の口から出ていたので、取引を交わすうち愛しあうような関係になった?

★考察5
結局デッカードはどっちなのか?
おそらく公開前ないしは前作公開後から延々と語られ続けてきた話題。しかしながらデッカードは機械でした!きてな描写は特段見られない。ウォレスがデッカードに対し初めからレイチェルと性的な関係になるように仕向けられ子孫繁栄の実験とされていたとしたらどうする?という悪い冗談を聞かされげんなりするデッカードを見ると、おそらくアンドロイドだろうと考えられるが、断言される描写はない(レイチェルは4年で死んだのにデッカードはおじいちゃんになっている)。ただこれまでの流れから言っておそらくレプリカントなのだろう。はじめからケーブルとかに繋がれて充電中とか表示してくれればこんなにモヤモヤせず楽なのだが。


■評論


機械と人工知能が恋愛をする、というもはや生身の人間置いてけぼりなherの要素や、主役は自分では無いと気付いて自己犠牲ののち去るライアンゴズリンがドラゴンタトゥーやマッドマックスのようであったり、これまでのブレードランナーをリスペクトしながらも新たな要素を取り込み、決して焼き増しではなく刷新したヴィルヌーブは本当に偉大だと感じた。愛が強すぎるゆえうまい言葉が見つからないが何度見ても様々な解釈ができ、どの時代に見ても映画が掲げるテーマが響くだろう。
前作同様想像と考察の余地を充分に残している事にも好感を持てる。




いくらレプリだからと言って真顔で壁突き破るのは反則でしょう。シリアスなシーンなのにめっちゃ笑いました。

2016年8月15日月曜日

【映画】ハイライズ




原作はイギリス人作家J・B・バラードが1975年に書いた長編ディストピア小説。

原作を映画鑑賞後に読んだが、かなり忠実に映像化したと感じた。また同時にこの情報量をあの尺に収めるのはインヒアレントバイスと同じ無謀さがあると思料。

ハイライズ鑑賞中はカンヌだったらロストリバー並みにブーイングの嵐が巻き起こるであろう悪趣味さと、ドラッグをキメた時のトリップのような不可解な映像の連続終始狂ったようなテンションの高さを保った抑揚の無さで、油モノを詰め込みすぎた弁当を食ったような胃もたれを観終わってから存分に感じた。
どうやらそれは自分だけではなかったらしく、エンドロール後の劇場はため息と分析に困った評論家で溢れ、とあるトムヒドルストン目当てで来たであろう女性は「これは本を読めば分かるものなの?」と映画の難解さをこぼしていた。


大枠としてはとてもシンプル。
国家あるいはコミュニティのヒエラルキーを、1つの高層ビルに見立て、それを階級ピラミッドの文字通り所得や社会的地位の低い順に住まわせていく。
建築家(ビルの創造主)はこのビルを完璧でしがらみのない”るつぼ”にしたいと述べており、ビルには多くのタイプの人間と生活の為のあらゆる施設が揃っている。
しかしある停電をきっかけに、全体の秩序が乱れ始める。上の階は15分程度で復旧したものの、下の階はいつまで経っても停電のままだというのだ。
夜な夜なパーティで騒ぎ立てる上流階級は湯水のごとく金を使い、電気も水も好き放題だった。その仕打ちを下の階が受けるという流れに不満を持った住民たちは徐々にデモを起こし、上の階に反乱を起こす。

一方で上の人間達も格の差を見せつけるとか言ってインフラを断つことで仮装階級の生活基盤を奪い根絶やしにしようとする(経済制裁)。
争いはやがて上と下だけではなく男と女、持つもの持たざるものと形を変え、人の性を掻き毟る。エロもグロも一緒くたで、それはまるでイタリアのカルト映画『ソドムの市』とあまり相違ない。


主人公ラングラーはカオスになったビルに対して至極冷静で外野的だ。ジムがめちゃくちゃに荒らされようが、残ったマシーンでいつも通りのトレーニングをする。食べ物も無いようなカオスなスーパーマーケットでも目当てのペンキ缶を持って出て行く。人の波をかき分け仕事から戻り、また車に乗って仕事に行く。まるで押し殺し自分を偽るかのように。
彼は何故巻き込まれないのか?あるいはなぜ関わろうとしないのか。

彼の仕事は外科医であり教授だ。
彼の周りはあまりに彼のことを知る人間が少ない。家族、友人、恋人の描写はなく、(原作では妻と離婚したという箇所があるが作中では白黒の写真で未練を表しているのみ)、仲間外れの少年だけが唯一彼が心を開いている対象である。
人の頭の皮に指を突っ込んで頭蓋骨から引き離し、淡々と解剖について説明をする。彼自身の日常がすでに非現実的なものであり、大衆とは離れた場所にあった事がコミュニティに影響されなかった1つの理由だろう。

またJBバラードがこのハイライズを書いた時代、次々に高層ビルが出来ていったそうだ。それは人がお互いと干渉し合う時代から、関わらない事が最善というドライな時代に移行している事を察知したのかもしれない。
内装に感心するトムヒ


また彼は意識的に俗世から隔離していた
めちゃくちゃになったスーパーマーケットで食べ物を探すのかと思いきや、彼は一つのペンキ缶を手にし、暴徒を殴り倒してまで死守する。
そのペンキを部屋中に塗りたくり、自分にも塗りつけた上に隣人にどうだと披露する。
彼はビルの人間が暴徒になったりコミュニティを作っても、一定のリズムも保ち(仕事やジムのマシーン)、自分の色を持ち続けること(水色のペンキ)で周りに流されず自我を保った。

結果的にそれはあのビルで生き残る事ができる理由になる。
しかしそれは物事に対し一切干渉せず存在する事がビル(現代社会、ないしはこれからの社会)で生き残る術となる。
寂しくもそれは事実で、周りを見ればそれは間違いでは無いと分かる。この情報過多、モノにあふれた現世で、いちいち物事に流され扇動されていては正直キリがない。原作は70年代に執筆された作品であるが、ソイレントグリーン同様、見事に未来を見透かしていたと言えよう。


これまでトムヒドルストン無いしはイギリス俳優に興味は全くなかったが、トムヒドルストンの演技の幅に驚いた。激昂するかと思いきや踊り狂い、情動を逸した行動を読み取れぬ表情でこなす。アベンジャーズみたいなブロックバスター物も良いが、こういう世間に対するアンチテーゼの塊のような映画で光る俳優は本物と言えるかもしれない。

2016年7月10日日曜日

【映画】インデペンデンスデイ リサージェンス








あらすじ
1996年に製作・公開され、世界中で大ヒットを記録したSFパニック超大作「インデペンデンス・デイ」の20年ぶりの続編。エイリアンの侵略を生き延びた人類は、共通の敵を前にひとつにまとまり、回収したエイリアンの技術を利用して防衛システムを構築。エイリアンの再来に備えていた。しかし、再び地球を目標に襲来したエイリアンの兵力は想像を絶するものへと進化しており、人類は為す術もなく、再度の絶滅の危機を迎える。

ここしばらくの間、少ない脳みそをを絞りきらないと理解が十分に出来ないような、難関で癖の強い単館系の映画ばかり見ていたこともあり、90年代に一世を風靡したブロックバスター物である本作はたまらなく響いた。ストーリーが今までと変わらないとか、誰が主人公か分からないとか、正直そんな事はどうでもいいし、もはや観る前からそんなことは分かりきっていた。
映画に求めるものは人それぞれ違うし、だからこそ様々な映画がカルトとして後世にいつまでも残り続ける。クソ低予算映画を取り憑かれたかのようにいつまでも観続けるようなフリークスも居れば、映画を見ているのか勉強中なのか分からなくなるようなインテリドキュメント映画オタクも居るのだ。結局、大衆映画―所謂インデペンデンスデイを筆頭とした誰が見ても何となくカタルシスを得られ、なにかすごい映画を観たと感じられるブロックバスターものは、映画オタクからすれば
安直ひねりもなく旨味調味料と保存量てんこ盛りのファーストフードのような愚かさと評される。
90年代はそういった街一つ破壊する爆弾のような大ヒット映画が大量に作られ、(ターミネーターやトップガンなど)我々の心を鷲掴みにした。しかし00年代に入りそういったIQ15でも楽しめる映画を観てきた映画オタクたちはそれを否定し、難解で説教じみたマイナーな映画に傾倒し始め、文字通り過去を否定し始めた。

昨年から今年にかけて90年代の続編ラッシュが始まり、スターウォーズを皮切りにジュラシックワールドなど、やっぱ90年代っていいよねと帆人は懐古し始める。ちょうどファッションの20年周期のように。

スターウォーズもジュラシックワールドもバージョンアップしたが、インデペンデンスデイは何も変わってないという評価が多かった。前者は確かに時代に合わせたバージョンアップがされていたと思う。例えるならばiphoneが5から6になって機能が刷新されるのに対し、インデペンデンスデイはiphoneそのものが50インチくらいでかくなって中身は一緒といった感じだ。
一緒なのはシーンだけではなくキャストもほとんど一緒。ウィルスミスは残念ながら出演していないが、代わりにIt Followsのマイカモンローがウィルスミスと同じタンクトップ姿でタフに戦う。葉巻はくわえてくれなかった。



内容に関して異論はないが、トランスフォーマーみたいに中国シネコンラッシュを意識したキャスティングとステマはどうかと思うがね。そしてなぜいつもステマは牛乳なんだ!

世間的な評価はいかにせよ、私はエメリッヒがそれを望んでいたからそうしたのだと思う。露骨に星条旗を掲げ、フィアンセに愛してると臭いセリフを放ち、期待を裏切らないメインキャラの死亡フラグとくすっと笑える小ボケの数々。それは我々をあの頃にそのままタイムスリップさせてくれる貴重な時間だった。
無論、これをあと3回くらい繰り返されれば、さすがの私もエメリッヒをひっぱたくことになるが。

2016年6月25日土曜日

【映画】エクスマキナ





有史以来人類は支配者を取っ替え引っ替えしながら現在に至る。かつては清王朝、イギリス大英帝国、あるいはオスマン帝国やローマ、ナチスなど、その時代毎にボスは変わっていった。しかし傑作CGアニメミニオンズでも語られていたように、君主というのは長続きせず、一度頂点に立つとあとは降下するか滅びるかしか道はない運命にある。今はアメリカが事実上の支配者となっているが、それも時間の問題というのは明瞭である。ましてやそもそもの人間が支配者であるという当たり前のヒエラルキーも、今や終わりを迎える可能性が浮上している。
===人類の進化について===
人類は生産性の向上のため歯車を発明し水車を作り農耕を一気に飛躍させ。
その歯車を活かし、風車を作り、エジソンのコイルと合わせて電気を生んだ。
電気と歯車と0と1で、コンピュータをチューリングは生んだ。
そしてコンピュータは無限の可能性を秘め、人類の生活を便利で豊かなものにする、はずだった。
青写真では。
コンピュータは事実無限の可能性を秘めていた。それ単独で活用するのではなくオブジェクト指向であるがゆえに、ネットワークと接続したり、ソフトウェアを変えたり、ハードウェアをアップデートしたりと、各人のニーズによってどうにでもなる魔法の箱だった。しかしその魔法の箱は同時にパンドラの箱だった。好奇心から開いたその箱には想像も出来ない災いが詰まっていた。人工知能である
人工知能という言葉はずいぶん前からあった。V.Bush の“As We May Think”では将来コンピュータが人類の生活を助けると語ったのは1945年終戦の年、言わばアランチューリングのチューリングマシンが改良され軍事力としてのコンピューターが莫大なバジェットで研究され発達し生活に適用し始める日の出の段階だ。1950年にはロボット三原則が発表され「人間を傷つけてはなならい.傷つくのを看過してはならない」「第1原則に反しない限り,人間の命令に従わなくてはならない」「第1,第2原則に反しない限り自分の身を守らなくてはならない」というかなり具体的なレベルまで引き上げられる。しかし実現性はこの段階では到底及ばない。
しかし最近になって人工知能の認識と利便性、そしてその脅威についてあちこちで多く語られるようになる。大きなインパクトとしてはIBMのワトソンが有名だろう。クイズ大会で優勝し、様々な食べ物のデータから料理を自分で考え生み出すという知能を持つ。ワトソンだけでなくチェスや将棋に人間に勝てるAIや、最適で効率的な業務指導をするAIなど徐々にその頭角を現し始めている。
36.8ペタフロップス。人間の脳の約二倍のスピードで動作するスーパーコンピュータ上であるAIは自分を進化させ続けている。ビジーチャイルドと呼ばれるそのAIはインターネットに接続し世界情勢や数学、芸術や化学に関する人類の知識を収めた何エクサバイトものデータを収集し続け、知能爆発を引き起こしそうになる。そしてこのAIはついに人類の知能レベルを超えたのだ。それを人工汎用知能(AGI)と呼ぶ。AGIはわずか2日で人間の1000倍の知能を持つようになり、その後もまだまだ進化し続ける。人類はすばらしい偉業を成し遂げた。果たして本当にそうだろうか?
『人工知能−人類最悪にして最後の発明』の著者ジェイムズ・バラットは以下のように語る。
”AGIは「自意識を持ち、自己進化する」コンピュータである。人間と同等の思考をする、つまり「自己を認識」する。すると自然に「自己保存」の衝動が生まれる。SFファンでなくとも、伝説的なSF映画「2001年宇宙の旅」で、宇宙船のコンピュータ「ハル」が自己保存のため隊員を抹殺しようとする有名な場面をご存じだろう。”
そもそも火を発見した時点で人類は支配されることが決定していた、といっても過言ではない。道具を使って何かを成しえて言葉を交わせることができる生き物は今のところ人類だけなので、これまで支配される心配は全くなかったが、その人類が自分を破滅に導く道具を作り出してしまうとは愚の骨頂であり滑稽である。まさに2001年宇宙の旅の冒頭、投げた骨が核兵器に代わるシーンだ。
人類の生活は便利で豊かにはなったが過酷であることは変わらなかった。より早く、完璧で、確実が求められ、肉体に限界が見え始める。あらゆる職業は機械化され多くの人類は職を失っていった。
また人間は情というものが存在し、多種多様でユニークなものであるため良くも悪くも生産性は情に左右される。ともあれば金銭的な欲求は一切なく自己保存しか考えないAIが、自分をシャットダウンしかねない人類を生かしておくだろうか。
閑話休題。
検索エンジンで有名な世界最大のインターネット会社“ブルーブック”でプログラマーとして働くケイレブは、巨万の富を築きながらも普段は滅多に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に1週間滞在するチャンスを得る。 しかし、人里離れたその地に到着したケイレブを待っていたのは、美しい女性型ロボット“エヴァ”に搭載された世界初の実用レベルとなる人工知能のテストに協力するという、興味深くも不可思議な実験だった…。
ストーリーは人工知能ロボットエヴァに対し、さえない青年ケイレブがチューリングテストをセッションごとに行っていくストーリーになっている。セッションは7まで続くが、おそらくこれはOSI参照モデルの7階層をベースにしているだろう。物理層からアプリ層まで徐々に本質を探っていくやり方だ。この映画の非常に面白い部分はここにある。はじめ我々は、青年がAIに対してチューリングテストでコンピュータかどうかテストしていくという考えのもと進んでいくと思って観ているが、セッション6で青年は閉じ込められてもセッションはまだ続くのだ。セッション7で気づくのは、試されていたのは人類であってこの映画で見ているテストは人工知能側のものだったと気づく。騙された我々はAIの脅威はもうすぐそこまで来ていると感じる、という作りだ。
作風はもちろんのことキャラクターとロケーションが目に訴え借るものがある。グーグル的なシェアNo. 1検索エンジンのCEOネイサンは、アホみたいに広大な私有地で一人孤独にAIの研究をし酒におぼれながらクソ真面目な顔して「このアンドロイドはセックスも出来るぞ」なんてぼやく新しいマッドサイエンティストぶりを発揮する。主人公のケイレブは、どう見ても童貞なプログラマといった感じで、どうしたらいいのかわかんない顔の天才である。エヴァに至っては、本当に俳優じゃなくてアンドロイドなんじゃないかというくらい笑顔が偽物感満載で(感情で笑ってない)、実は逆チューリングテストを受けさせられてるのでは?と錯覚するほどだ。
ロケーションについては広大な自然に囲まれた小さなコテージとその地下に存在する最新鋭のハイテクホテルのギャップと共存がたまらない。モダンアートみたいな打ちっぱなしのデザイナーズハウスしかり、モード系のアパレル店みたいな地下の内装しかり。地下については蛍光灯の代わりに15,000個のタングステン豆電球を用いることで独特の作風を生み出しているらしい。庭にサンドバックはマネしたい。冷蔵庫にはウォッカだらけというのもいい。
しかも壁にはジャクソンポロックの『No.5,1948』が掲げてあり、ネイサンは人工知能と比較する。あのシーンは今年度上位に入る最高のシーン。ジャクソンポロックというのは無意識をテーマに意図的な創作ではないが、それは本当に意識がないのではなく、ユングのいう集合的無意識との対話、フロイトの理論に傾倒したダリの偏執狂的批判的方法のように意識化にありながら無意識の美学を追及した。矛盾しているようでしておらず、それぞれが対なようで紙一重なのだ。抽象表現主義というのは写実から徐々に落とし込んでいくように、意識をベースに無意識があるのでアンドロイドにはそれは不可能だろう。なんせ家でけたたましい音を立てて印刷しているプリンターは常に無意識なんだし。だからこそネイサンの言うCase文やIf文で完全にプログラミングされ計算されつくされた「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すペッパーくんのようなスタチューではなく、意識化にありながら返事をするアンドロイド、それこそがしひょうであるとあの絵をベースに胸中を語ったのだ。
「誕生」と「観察」、そして「血」を巧みに結節したアレックスガーランドの監督脚本、手堅くも気高いスコットルーディンの確かな演出、俳優陣の120%の健闘。アカデミー賞視覚効果賞を獲得するのも納得の高品質なホラー映画

2016年4月26日火曜日

【映画】レヴェナント

復讐劇の魅力。
それはカタルシスを得られることにある。
アリストテレスは悲劇のカタルシスを唱え、医学界でも苦痛を浄化する際に用いる。

映画におけるカタルシスといえば、どう考えても乗り越えられない状況や障害を紆余曲折あった後に乗り越える展開が王道だ。


言わずもがな本作は復讐がテーマだが、その対極にあるものは何だろう。

平和、愛、許し、平穏、神、母性、自然?

復讐は人類固有のものであり、その対極にあるのはやはり自然=神なのかもしれない。

そうなると本作では自然という土台の上で、ちっぽけな憎悪がもがくというプロットだと整理できる。
復讐をガソリンにして過酷な環境下で生き延びたというのも一理あるが、やはりテーマを思えば復讐ではなく自然に帰化する(もともと大地はネイティブアメリカンものでありアイルランド系の移民たちはよそ者でしかない)ために生かされていたとも取れる。
結果としてキャプテンとは違いヒューグラスは妻の顔を最後まで覚えていられたのかもしれない。

ソ連の監督タルコフスキーは、朽ち果てた教会を映画『ノスタルジア』で描き、それを自然と神の一体として表した。
教会が無傷で存在することは人口物と自然体の決別であり、2つは全くの両極端であるが、教会が朽ち果てることで二つが一体化する。タルコフスキーはそういった美学をすべての作品にちりばめた。

タルコフスキーは作品において女性を宙に浮かせる描写を好み、自身はそれをセックス以上の愛と述べている。

『鏡』(1972)『惑星ソラリス』(1974)『サクリファ イス』(1986)にみられる「人が空中に浮かぶ」表象は、彼の映画の本質に迫る 重要な要素の一つである。彼の作品には一見、合理的には意味を掴みにくい表 象が随所に溢れているが、まさにそれが観客を魅了することも事実である。不 意に現れる室内の雨、時間軸の変化、淀んだ水のカット、廃墟に表れる白い犬 といった、唐突だが意味ありげな表象の出現は枚挙にいとまがない。これらは 何を象徴するのかという数多くの問いかけに、基本的に監督は、「それらは象徴 ではなく比喩であり、スクリーンの中で起こっていることは現象である」と答 える。
(出典:アンドレイ・タルコフスキー作品における 空中浮揚の考察―時空の超越)

本作では突然妻が浮いたり朽ち果てたカトリックの教会が出てきたり不可解だとは感じるが、事前にイニャリトゥがタルコフスキーのイメージを撮影監督のルベツキに渡していたあたりからかなりタルコフスキーに寄せていく予定だったのだろう。

唐突な隕石についてもタルコフスキーの『ストーカー』で同じような描写があるし、死んだ妻の胸元から鳥が飛び立つという描写も過去に描いている。
以下動画を見ていただければオマージュということが分かる。
https://www.youtube.com/watch?v=cpcdhNq_VPM

タルコフスキーの描写をここまで用いるのはイニャリトゥ本人が尊敬してやまない監督という事と本作レヴェナントでは自然と愛テーマであるがゆえに必要だと感じたのかもしれない。

ここまで御託を並べてきたが、正直言って
「ディカプリオ先生のここまでやります!サバイバル講座」にしか見えなかったのは言うまでもない。ここまで体を張って主張しないとアカデミーは取れないのか。もはやこの世の嫌な役は洗いざらし、なべて演じたであろうディカプリオを、まるでタオルケットで温めてやるアカデミー会員の爺様たちがが目に浮かんだ。

なぜそうまでしてアカデミーがほしいのか全くわからないが、追い詰められた極限状態の人間の目の演技はいつも素晴らしい。









おまけ
熊の正体