2015年2月19日木曜日

【映画】フォックスキャッチャー







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マザコンかつ自分の思うがままに事を進めてきたスペック主義の不気味な鼻の御曹司と、周りに流されやすいタイプのパワー系筋肉ゴリラ(弟)と男性ホルモンに溢れてるテクニック系髭ラファロ(兄)の話。アメリカは強いという何かにしがみついていた今から30年前に、男たちがそれぞれ欠損した何かをカバーしあう話。







ロサンゼルス五輪で金メダルを取っても、子供達に講演して20ドル貰って(今よりは貨幣価値が高いだろうが)、安い車の中でジャンクフードに貪り付き、家に帰ってもゲームボーイして粗末な生活を過ごし、ソウル五輪に備えぼろいトレーニング場で熱心にトレーニングを重ねる主人公マーク。当時のレスラーはプロになる事は許されず、アマとプロの世界は完全に分かれており、また仕事もコーチぐらいしかないらしく、かなり苦しかったらしい。だがここまで扱いがひどいのは正直驚いた。

一方で兄デイヴは家族を持、ち田舎でコーチをやるなんていう安定した未来を持ち、また技術面でも弟より勝っていた。
自分は兄弟が居ないからその感覚は分からないが、兄弟間の妬み嫉妬は必ずやあるだろう。古くは旧約聖書にもあるように、カインとアベルは妬みが原因で人類で初めて殺人を犯した兄弟とされている。
そんな兄への妬みもあり、弟マークは突然舞い込んだビックビジネスに飛びつく。その胡散臭には何かしら気づいているようではあったが(世話人のよそよそしさなど)、金が入るなら構わないといった態度でデュポンの囲いに捕らわれる。


アメリカの三大財閥であるデュポン家の御曹司、ジョンデュポンは、母から強制されていた馬を嫌い一方でレスリングを愛した。ただそれは母には認められず、自身もレスリングを出来なかったことから、マークを金で所有してコーチという形で金メダルを取り、名目としては愛国心から強いアメリカを体現するとしていたが、結局は自己満足と母に認められるという二つの目標達成がメインであった。レスリングで金メダルを取り、野蛮な種目ではないとアピールする為に。

この三人に共通するのはそれぞれが欠損しているということ、また欠損している部分を補い合っているということだ。マークは両親の愛を受けず兄デイヴに頼って生きていた。だからこそ兄からの脱却、自立。兄デイヴは弟への無条件の愛を送りながらも弟から頼られたいという思い。デュポンは母に認められる為に金メダルの達成。このそれぞれの求めるものが合致すると思われたが、そのピースの形は当てはまらなかった。


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フォックスキャッチャーというタイトルの意味を考える。フォックスキャッチャーとは貴族が楽しむキツネ狩りのことだ。映画の冒頭でも荘厳なBGMと一緒に白黒のキツネ狩りの様子が映し出されていたが、その写真を見ると分かるように、馬に乗った貴族は何もしない。キツネを負うのは猟犬であり、キツネを狩るのは猟犬なのだ。そして狩った狐は貴族のものとなる。
この映画はいわばそういうことだ。大富豪の坊ちゃんが金メダルというキツネを二匹のムキムキの猟犬に狩らせる。


嫌な仕事を他者に任せるのはアメリカ人の気質なのだろうか。古くは大英帝国からプロテスタント達がアメリカ大陸に渡ってきて、アフリカ人にキツイ労働をさせた。カルタゴ人が自分たちの戦争のために傭兵を雇ったように、金さえあれば嫌な仕事を任せがちな所がある。だからこそWASPの城は今や崩れつつあるのかもしれない。
今でこそメキシコ人の労働者は多い。アメリカに旅すれば分かるが、トイレ清掃や工事現場など人が嫌がる仕事は基本的に白人がしている事はまず無い。




この映画のほとんどは静かでストレスなくらいの緊張感と重々しさである。なんで金を払ってそんなことをしなきゃいけないんだと思うかもしれないが、火薬とおっぱいばっかの脳筋映画を見つづけるとそういう人間になってしまう。
その今にも切れそうなピアノ線が如し緊張感を保っているのが、スティーブカレル演じるデュポンである。彼は生まれつき金があったために自身の欲求だけを満たし、自分のドキュメンタリーを作ってしまうようなクズだ。しかもめんどくさいことにひどく愛国者で、ミリタリーおたくという危なっかしい男である。


アメリカ人の血なのか内在するイデオロギーなのかはわからないが、レスリングやアメリカンフットボールのようなアメリカ発のスポーツを見ていると日本とは違う猛々しさを感じてしまう。それはおそらくアメリカ人が日本人のような農耕民族ではなく狩猟民族であり、それが未だ血にまじっているのだろう。






正直全編通して重々しい雰囲気が立ち込め、あまりすっきりしないラスト(間違った形のアメリカのヒーロー)を迎えもう一度みたいとはあまり思わないのだが、不思議と違う役者だったらどう演技するのだろうだとか、実際はどんな事件だったのかなど気になってしまうあたり、私は無意識にこの映画の虜になっているのかもしれない。










試合直前の体力測定で5ポンドオーバーしてしまったマークが兄とともにがむしゃらで減量するシーンはジム欲倍増間違いなし。

2014年12月19日金曜日

【映画】ゴーンガール






 
 
テンポよくリズミカルにダーティなネタをショットガンが如く冷酷に毎回ぶち込んでくるデヴィットフィンチャー。今回もその威力は強大かつ広範囲に風穴をぶち空けた。個人的な見解だがフィンチャーは多分この世が好きじゃない。すごく冷たい目で卑下している。また一方ですごく頭の悪い言い方だがフィンチャーはインテリだ。映画から滲み出ている。ここまで漠然とした感覚での評価しかしていないがそう思う所以を書いていく。
これは良質なホラーコメディだ。誰しもが思う。こんなやべえ夫婦いるかよwwと。しかし気づいてないかもしれないが誇張していたとしてもこれは誰しもがありうる話だ。


ソーシャルネットワークでは早口天パ芸人ジェシーアイゼンバーグを起用しFacebookのCEOマークザッカーバーグの最低で壮絶な設立ストーリーをテンポよく仕立て上げた。伝記物やこういった類のストーリーは退屈になりがちだが常人離れした見事な会話劇と、キャラクターの濃さを活かし大ヒットに導いた。またドラゴンタトゥーの女ではルーニーマーラをダークなハッカーに仕立て、冷たく温度のない殺人のおぞましさを原作のイメージを壊さずリメイクした。
セブン、ファイトクラブ、ロードオブドックタウンと、どの作品にも共通して言えるのは全く飽きない、そして高品質。全ての作品に妥協を感じられず、間違いない作品を生み出してきたデヴィットフィンチャー。
そんなデヴィットフィンチャーだからこそ今回のゴーンガールも期待値を高めに鑑賞。
予告を見た段階である程度オチを予測していたのだが、それは遥か序盤で通り過ぎ、期待を裏切られた(いい意味で)。


まず予測していたのはマスコミの煽りによって主人公が狂わされていくというシナリオだ。これは中盤で使われる。それ故に私のキャパを超えた後半はこの後どうやって風呂敷まとめんの!?と食い入るように見ていたがさすがはフィンチャー、全てを一つにまとめ、そして冒頭に繋げるというまたにくい演出をしてみせた。
それもマスコミに踊らされるアメリカ人のバカさ加減を織り交ぜながら描いていたのは笑えた。テレビが右へといえば右へ、左へといえば左を向く。アメリカは日本よりマスコミのあおりが激しい。コメンテイターはことを大げさに説明し司会者は5倍くらい盛った話をして視聴者を喜ばせる。フィンチャーはその現状を痛切な批判を交えながら描いた。
ナンシーグレイスショーという番組がアメリカにある。未解決事件や失踪事件を番組が勝手に独断で裁きを下すというもの。それもすこぶる過剰で、二歳の子供が行方不明となった母親に対してお前あが容疑者だろうと責め立て、その結果母親は自殺に追いやられた。おそらくナンシーグレイスショーのような過激な番組がゴーンガールのもとになっている。



正直ネタバレなんかはここに書かなくても見れば分かるのであえて書かないが、見終わって思うのは男と女は全く別の生き物ということ。同じ哺乳類であっても男が完全に女性に社会的な地位で勝てても、家庭では女性が君主になる。誰だってそうだ。そうやって古来から成り立ってきている。そのヒエラルキーが成り立たない家庭は崩壊する。だからこそ結婚に人々は苦悩する。俺はこいつで良かったのか?と。
男女の関係を経験した事があるなら誰しも共感できる意見の食い違い。なんで意見がこうも食い違うのでしょうね。それは男と女は違う生き物だから。こう考えるしかない。
エイミーのこれが結婚てもんよというセリフ。恐ろしいけどあれこそが真実。
男女のカップルがデートでゴーンガールを見に行くことはリスクが伴うが必要だろう。なぜかって?男は浮気したら嫁は失踪しかねなくなるからだ。

 
二時間半という長丁場ではあるがそれを感じさせない洗練されたフィンチャー空間を映画館で楽しんで欲しい。人によってはスカッとし、人によっては恐怖を覚え、ある意味パーソナルな映画だと言える。 
ゴーンガールのタイトル、行方不明の妻はもちろんだけど、イカれた妻とも取れるから面白い。
 

2014年12月17日水曜日

【映画】フューリー






生涯で見た一番恐ろしい映画はプライベートライアンである(ちなみに2位は小野寺の弟、小野寺の姉)。ジュラシックパークやスターウォーズを見て、スピルバーグ監督はなんと冒険心とクリエイティブな魂に溢れている監督なのだろうと満ち足りていたが、同監督ということでプライベートライアンを見てどん底に落とされた。吹き飛ばされた自分の腕を持ち頭がイカれて右往左往する兵士、臓器がはみ出てママ〜と叫ぶ兵士、戦車で木っ端微塵になる兵士、狙撃兵同士の静かな戦い。まるで今まで優しかった近所のお兄ちゃんが実は犯罪者だったくらいの衝撃である。プライベートライアンにより私は戦争の無慈悲さを学ぶ。
またキューブリックのフルメタルジャケットで戦争の下劣さを学ぶ。それも説教的なセリフや主人公補正的な物を完全に削ぎ落とした徹底的にリアルな物によって。

戦争は人類が本来備え持つバイオレンスの精神が生んだ文明人の交渉の形だ。我々は物を保有するという概念を生み出して以来、奪い、吸収し、国家を形成してきた。結果として人類は言語とバイオレンスにより強者になったといえよう。
その避けては通れない戦争という分岐点を語る映画は数多くある。ミリオタ万歳な兵器や銃が盛り沢山な映画もあれば、戦争を淡々と語る映画、あるいは戦争はあってはならないと教訓的に語る映画。挙げればキリがないが毎年数多く量産され消費される。
今回のフューリーもまたその数多く量産されるB級映画の一つのなりえた。しかし結果としてそれは今までとは逸脱した究極の戦車映画としてデビッドエアー監督に生み出される。

あらすじ
1945年4月、ナチスがはびこるドイツに総攻撃を仕掛ける連合軍に、ウォーダディーというニックネームのアメリカ人兵士がいた。カリスマ性のあるベテラン兵士である彼は、自らフューリーと名付けたアメリカ製の中戦車シャーマンM4に3人の兵士と一緒に乗っていた。敵国ナチスは追い詰められ女子供も兵士として使うほど緊迫した状況下にあった。そんなある日、ウォーダディーの部隊に新兵ノーマンが加わることになる。


今までと一線を画す要素として一つ挙げられるのは戦車ということにある。ここまで戦車にこだわりきった映画は今までなかった。そもそも映画で使われる戦車は大抵フェイクであり、本物はほとんどが対戦の被害でなくなってしまった。殲滅されてしまったナチスにおいては戦車なんてほとんど残っておらず、今回出てくるティガー戦車なんかも元から生産された台数が少なかっただけに皆無に近かった。しかしイギリスの戦車博物館にほぼ新品の状態で保存されていたティガー戦車の存在を知ったエアー監督は何とか使わせてくれと頼み、今回映画内で本物の戦車が使用されることとなった。私は熱心な戦車オタクではないし仮にシャーマン戦車が抽選で当たって自宅に届こうが物置にしか使わないだろう。しかし日本のミリオタは大歓喜らしく、フューリーの評価は非常に高い。

私が評価したいのは役者の演技だ。いや、演技の姿勢といったほうがいいか。
ブラッドピット達の五人のメンバー(1人は死んだ)は長らく大戦を戦車の中で共にし、日々死を枕にしながら生き延びてきた。そんな極限状態を今までセレブリティな暮らしをしていたのに突然演技として表現するのは無理だということで、一家代々兵隊の生まれのデビッドエアー監督は、ブラピ達一同を戦車の中で寝泊りさせ、また撮影の直前まで殴り合いをさせた。そうリアルファイトクラブである。しかもその様子は一切映画には出てこない。殴り合いをさせ、バイオレンスを身体に染み込ませ、猛々しいエネルギーを身体中から放出するために監督が考えた役作りの術である。シャイアラブーフにおいては気が狂い、自分の顔にナイフで傷をつけたり歯を抜いたりした。結果として彼らは家族となり、台詞や演技の表面上だけでなく本当に昔から一緒にいるかのような連帯感をスクリーン越しに醸し出した。

残念なところといえば主人公補正が強すぎるという事か。2.300のナチスに囲まれても五人で無双するラストシーンは少し無理があるかと思うがハリウッド映画の性質上避けられない。とはいえドイツ側から見たらひどく複雑な気持ちになるだろう。

最後主人公ノーマンは戦車の下に隠れてナチスをやり過ごす。しかし一人の若いSS将校に見つかってしまう。だが極悪非道なはずのナチスはにっこり笑って見なかったことにする。もう敗戦を目の前にして無駄な悪あがきをしない未来の見据えている兵士か、あるいは極悪なナチスも結局は人の子で慈悲だって持っているという意味か、あの若き将校はかつてのノーマンがそうであったようにまだ子供を殺せない殺人マシーンになっていないSSで自分と年の近いアメリカ兵を見てにんまりしたか。結論は見た人間にのみ委ねられるだろう。

ブラッドピットの、「理想は平和だが、歴史は残酷だ」積極的に使っていきたい私生活とかで。
個人的にはラッキーストライクをジッポで吸ってるあたりがドツボ。

2014年11月27日木曜日

【映画】インターステラー

 



2014年度公開された映画は2001年宇宙の旅を感じさせる物が非常に多かった。アンダーザスキンでは、冒頭から目の光彩を反転させてワームホールを意識していたし、ルーシーでは猿と触れるスカヨハが超越した存在=所謂導き手モノリスでありスターチャイルドであった。
自分は熱狂的な2001年宇宙の旅信者であるし、スタンリーキューブリックの虜になったマゴッツの一人なので宇宙系の映画となればどうしても比較してしまいかねないが、今作は2001年への挑戦であり、進化であり、未来であった。要するにぶったまげた。

まず挑戦と言ったのは、本作の三時間の尺におけるプロセスが2001年を意識したものであり、シーンごとのオマージュを多く感じられる点にある。例えば今回のキーとなる時計は実際のアポロ計画の時に使用するオメガ製とは異なりハミルトン製だ。なぜかといえば2001年ではハミルトンを着けているからだ。また2001年~では当初ワームホールは土星に配置したかった。しかし土星の輪に満足しなかった完璧主義のキューブリック御大はやむなく木星にワームホールを置くことになる。そのキューブリックの無念を晴らすつもりかどうかは分からないが、ノーランは土星の横にワームホールを置いた。
また進化というのは刷新すると言う意味での進化である。2001年は当時の最新技術を限界まで集め、エッジを効かせ、極限までスタイリッシュにした。物理学者を製作に加え、まだ月にも降り立ったこともないのに、あのビジュアルを完成させた。そのため今も色あせず、昔のSF映画にありがちな宇宙探査してるのにフロッピーディスクかよ!みたいな興ざめがなく今も神格化されている。おそらくインターステラーも未来代々語り継がれる作品になるであろう。同じように製作に物理学者を交え、今分かってる最大限の技術と科学で宇宙へのフロンティアをビジュアル化した。
おそらく今後作られるSFは2014年度に相当強力な宇宙映画が作られてしまったために、かなりハードルが上がり、映画は量産され駆逐され選別されるだろう。エッジが効いていい作品が多く生まれるという考えを取れば、今作は映画の未来だと言える。


個人的にはTARSのキャラクターが非常に良かった。ビジュアルや導き手のようなポジションはモノリスのようでありながら、喋る上にユニークなジョークを飛ばすなど人とは違う第三者的な立場が存在することでこの映画のいいエッセンスになっていたと思う。事実あれが人であったとするならば、あるいはプロメテウスやエイリアン、ブレードランナーのような人型アンドロイドだとしたら、陳腐なものになってしまうだろう。無機質な有機物体であるがゆえに非常に愛着の湧くキャラクターに仕上がっていた。作中、ジョークや正直度のレベルを設定でき、それに伴いTARSが冗談をかますのだがそのセリフの中で正直度を100%にするとどうなると問うと、あまりいいことはないと答える。これは明らかに正直度100%で矛盾が生じ乗組員たちを殺したHALへのオマージュでありそのセリフを聞いた自分はスクリーンまで駆け寄って泣いた。

毎度説教的というか哲学を混ぜ込むノーラン先生の今回の授業はそこまでへヴィなものではなく(今までと比べて)登場人物に割と陳腐なセリフを語らせつつも映像で見せるという今までとは少し違う変化球な授業であった。実際登場人物に例のごとく哲学的なセリフを語らせて一歩間違えれば、おいてかれてラストまでよくわかんなくなるなんて自体が多発しただろうから、ダークナイトで商業的に当てたノーランにはもはやなんだかよくわかんねえけど意味があるっぽいセリフ(悪の法則のカルテル等)を語らせるのは難しいだろう。

今回、いや過去作から今に至るまで、あるいは近年の作品から自分が汲み取った監督の思いは、内側ばかり見ないで外側を見ろということ。インセプションでは深層心理にずぶずぶとハマっていって抜け出せなくなるディカプリオが記憶に新しい。またディスコネクトではSNSにはまった人々が闇に落ちていく他人ごとではない現状を映画化した。そのポスターは上を見上げていた。
現代人は新しい技術をすべて身の回りの便利さに費やし、スマートフォンはどんどん便利になり、上を目指すスピリットを忘れてしまった。現状で満足し、このまま欲におぼれてやりたいようにやってるといつか食糧難になってみんな畑耕しては放置して砂漠化して地球住めなくなっちゃうよ?フロンティアスピリッツとりもどそうぜ?みたいなノーラン先生の教えをぼくはこのえいがでかんじとりましたまる。
我々消費者がすべて悪いみたいな突き放した感じにもとれるけどね。

アメリカ人、あるいは人類には根本的に冒険心、探究心、フロンティアスピリットが備わっていると思う。何かを極めようという考え、金鉱を求め西へ、神の土地イェルサレムへ、目的は何であろうと人は確率は低かろうが自己犠牲によって探究する。だからこそ類人猿から人類に至るわずか数千年でここまで地球という惑星をおおよそ支配するまでに至った。
今後地球が滅びるかどうかはわからないが、インターステラーを見ることによって(三時間に耐えて)何か考えるきっかけになればと思う。
おそらくゼログラビティよりも劇場で見ないと後悔する作品。




彼の登場で絵理事有無の続編かなと思ったのは俺だけじゃないはず。

2014年10月4日土曜日

【映画】ファーナス 訣別の朝






リドリースコット御大並びにディカプリオが製作、スコットクーパー監督、クリスチャンベール、ウディハレルソン、フォレストウィテカー、ウィレムデフォーとメンツ集めるだけで莫大なバジェットがかかってそうな今作。自分の降り立ったことのある地、ペンシルベニアということもあって期待値を高めにして見た。
舞台はペンシルベニアのブラドック。鉄鋼業が盛んな街で、街自体は廃れ、アメリカ内部特有の陰気な田舎町だ。そこで金使いの荒い弟と直向きに鉄鋼業を続ける兄。しかしある日サイドブレーキを踏み忘れた車が道路にはみ出しており、たまたま酒を飲んで車を運転していた兄ラッセルはその車に衝突し、不幸にも中にいた子供を殺してしまう。実直に働き弟の世話までしていた兄は牢屋に入ってしまい、父の最期を看取ることが出来ず、嫁には出て行かれ、弟はイラク帰りで頭がおかしくなっている。すべては失われた。しかもそのタイミングで弟が金を返すためにファイトクラブ的な賭けをしていると知る。さらには悪党に捕まった疑惑。警察は何もしてくれない。弟がファイトクラブを始めたのも、イラク帰りの兵士に何もしてくれない、国は俺らに何もしてはくれないという理由だった。
兄ラッセルは教会で祈る。まるですべてを失った旧約聖書のヨブかのように。そしてラッセルは復讐に燃える。これまでの映画なら悪党を追い詰め、最後には許すだろう。しかしファーナスは違う。


これはとある田舎町の話ではない。
アメリカ全土の話だ。アメリカ中でこのような苦悩が湧き起っている。
普段我々が目にするきらびやかなアメリカはほんの小さなひと塊で、アメリカのほとんどはクソ田舎と低所得者で溢れかえっている。オバマに就任する番組が流れていることから2008年なのだろう。ブッシュの的外れなイラク派遣で多くのアメリカ人兵士が犠牲になり、無事帰還した兵士もまともに職に就けず、また国もそれに対してケアしなかった。おまけに国民皆保険は無く怪我や病気はできず、自分の身は自分で守らなければならないという意識がアメリカ人には強くある。そのためどの家にもライフルやピストル、ガンマニアに至っては戦争に行くのかってぐらいでかい機関銃を持ってるやつもいる。
また内部には厳格なクリスチャンが多い。ブッシュが当選したのは内部のキリスト教原理主義を味方につけたからだと言われている。それくらい内部の力は強い。だからどこに行っても教会があるし毎週日曜は絶対に教会に集まる。
そしてクソ田舎では警察の目はそこまで厳しくないため自家製のメス(メタンフェタミン)が多く悪党を増やす。昨今ではブレイキングバッドというドラマがアメリカで大ヒットしたが、それに近い状況がアメリカ中にある。上層階級の夫婦がある日夫に先立たれ、今の暮らしのレベルを下げたくないがために風邪薬からメタンフェタミンを抽出して売買していた未亡人がいたなんてケースも事実ある。

そんなアメリカのリアルな苦悩を凝縮しリドリー御大特有の重苦しいやるせなさと張りつめた弦のような緊張感で今作は二時間続く。


冒頭でこれまでの復讐劇なら悪党を殺さず許すが今作は違うと述べたが、ラストラッセルは悪党の頭をぶち抜く。初めは撃っちゃうのか....と何とも腑に落ちない感じだったが、今思えば、何もしちゃあくれない国に対して中指を立て、自分のことは自分でするというメッセージを込めたヘッドショットだったのかもしれない。弟が成し得なかったことを最後まで兄はケアしたのだ。



クリスチャンベールが自分が持っているgoodwearのTシャツを着ていてわかってるな~コイツぅって思った。

2014年9月7日日曜日

【映画】ケープタウン






世界的に見ても危険な国ランキングで上位に挙がってくる街、ケープタウン。アパルトヘイトの撤廃後、ケープタウンに大量に国内や周辺諸国から住民が流入したが、彼らの多くは失業者となり、治安が急速に悪化した。この国の治安の悪さは貧困と社会的格差に原因がある。
 かつては南アフリカにある美しい町として多くの観光客が訪れていたが、ここ数年は犯罪とギャングの対立戦争の中心地となりつつある。ヨハネスブルグほどの治安悪化は見られず、昼間なら徒歩での外出も可能ではあるものの、犯罪は激増している。日本国の外務省からは、市の中心部(シティ・ボウルおよび北西部)ならびに市東部のケープ・フラッツ地区には注意喚起が発出されている。
ちなみにアフリカでもっともやばいのがソマリア。ソマリア沖海賊問題で日本の諸外国との貿易において他人事ではないが、警戒レベルはレベル4でこれは外務省の出したデータによるもので、Lv1気をつけろLv2やめとけLv3行くなLv4逃げろみたいな感じで4は最大。
さらに世界で最も治安が悪いのはホンジュラスのサンペドロスーラ南米から北米までの麻薬の経由地になっており殺人事件発生率は日本のおよそ400倍。グランドセフトオートの世界を身近に感じられる世界だ。ちなみに2位はワールドカップでふるぼっこにされたコートジボワール。
 
先ほど治安の悪化について原因は貧困と社会的格差にあると言ったが、経済的不平等が生じる原因は、賃金・収入の大きな違い、労働市場税制の穴やタックスヘイブン、コンピュータ化と技術革新、人種による不平等の要因が挙げられる。ただし日本と大きく違う点は天然ガス、ダイヤモンド、鉄などの資源が豊富なのに対し技術がそこまで発達していない、さらにはそれを他国が教育するのではなく、外資として流出してしまっているために大きな格差の原因となった。また、長らく続いていたアパルトヘイト(人種隔離政策)の影響により第9地区でテーマになったような、貧しい人々がある一帯にすし詰めにされる状態になったため急速に治安が悪化した。仮に自分たちに置き換えて考えてみると、足が短い人間は職に就けないという政策があったとする。そうするとある地帯に足が短い人だけのコミュニティが出来、そこには裕福な人は近づかなくなり、またてっとり早くかつ公的な職ではないことをする。それは結果的に薬物の売買であったり武器の不正取引になってくる。
ソマリア沖の海賊も豊かな漁場を他国の大型漁船が大量に持って行ってしまったために枯渇し、っやむを得ず通行するタンカー船などを襲って身代金を要求し、生活の基盤とするしかなかったのだ。
今回この映画ケープタウンでも因果応報というか、巡り巡って返ってくるというか、報復のようなものがテーマとして根底にある。
主人公の一人である黒人捜査官のフォレストウィテカー(以下黒釣瓶)は以前アパルトヘイトにより父を亡くし(それももっとも残忍なタイヤネックレスによる死刑で)、本人も警察犬に金玉を噛み千切られ夜の営みはマッサージだけを強いられるようになってしまう。
彼自身寛大なため一連の出来事は許しているのだが、ある事件をきっかけにそのリミットが外れ、頼りない黒釣瓶から暗黒釣瓶へと進化する。その表情の変化は見物。
始めから最後までずっとガサツで野蛮なオーランドブルームよりも切れたら怖いのはこういう真面目な怖い人だよなあとふと思ってしまった。
 
 
映画全体を通して南アフリカのほのかに危険な雰囲気を撮り方や音楽でしっかりと演出できているし、それを証拠づけるような上質なバイオレンスもあり、また刑事ものとしての、じわじわ解決に近づくサスペンス要素もあり、文句なしの良作。
最後黒釣瓶は殺すべきだったのかまた許すべきだったのかを見終わって考えた。
セブンで味わった何ともしっくりこない胸に引っかかる感じに似ている。
殺すことでバイオレンスは繰り返されているということを訴えていたのか、あるいはあそこで清算しなきゃそれこそしっくりこないだろと監督が感じたからなのかはわからない。
ただオーランドブルームが最後、自分の中で父と和解したことだけがこの映画において唯一の救いだった。

2014年8月31日日曜日

【映画】LUCY

あらすじ
マフィアの闇取引に巻き込まれたルーシー(スカーレット・ヨハンソン)は、特殊な薬が入った袋を体に埋め込まれ運び屋にされてしまう。しかし、体内で薬が漏れたことで彼女の脳機能は驚異的に覚醒。脳科学者ノーマン博士(モーガン・フリーマン)が見守る中さまざまな能力が超人的に目覚める一方、少しずつ人間性が喪失し、自らを制御できなくなっていく。

2014年はキューブリック御大の偉大さを再認識させられる年だった。量産される商業映画だろうがパーソナルなマニアックフィルムであろうが、随所にキューブリック作品の息吹を感じさせ、いわゆる通過儀礼になりつつあると実感させられる。
ルーシーにおいてはキューブリック要素はもはやメタファーどころではなく、2001年宇宙の旅のアクションリメイクかと思わせるほどだ。猿が水を飲む序盤のシーンの始まり、モーガンフリーマンの言う「人類は知能を20パーセント覚醒させるイルカに対し道具を駆使して生存する生き物だ」という言葉はもはや武器を手にし進化の理由となった骨であるし、善悪の判断を完全に排除し神的領域で生きるルーシーはもはやHALでありスターチャイルドだ。では導き手であるモノリスはモーガンフリーマンか?2001年宇宙の旅が好きでたまらない人間にとっては結末がない云々はもはやどうでもよく(リュックベッソン監督作品に中身を期待してはいけないシークエンスを楽しむべき)、ニキータやレオンを彷彿とさせるスカヨハの妖艶なまでのアクション、インセプションばりの時空間移動、全体にちりばめられた2001年宇宙の旅等、おいしいとこを集めまくりましたみたいなビュッフェランチ映画(勝手に命名)だと感じた。
しかしビュッフェランチを食って食後に毎度思うのは食欲を満たされただけで本質的な感動は得られていないという点であり、ルーシーでもそれは同じことといえる。ただでさえ多くの映画のおいしい部分を拾ってきたにもかかわらず、脳のリミッターを外してチート使用後のようななんでもあり状態で、これどうやってエンディングまとめんだ?と誰しもが思ったはずだ。結果的にそれは我々を納得するものではなく、視覚的な満腹感は得られたが映画的な幸福感は得られずにエンディングを向かうこととなる。

最後スカヨハはあらゆる概念を超越し神に近づいた。その理由として冒頭の猿と触れ合うシーンがその根拠づけとなる。あの手の角度と触れ方は、途中サブリミナル効果でも差し込まれていたミケランジェロのアダムの創造でしかない。アダムの誕生は、旧約聖書の『創世記』に記された神が、最初の人類たるアダムに生命を吹き込む場面を表現しているとされている。猿とのふれあいのシーンで猿はスカヨハに人間性を埋め込まれたのだ。ってことは我々の神はスカヨハってことになる
最終的にはI am EVERYWHEREという言葉を残し、時空かあるいは素粒子にでもなったのだろう。限界まで突き詰めれば確かにそうかもしれないが、そんな漠然としたラストで高まるのは時空オタか東大理三男子くらいだろう。
我々単細胞生物(少なくとも東大理三男子から見て)にとってそんなラストが腑に落ちるはずもなく、なんで今までもののけ姫のおっことぬし様的なビジュアルだったのになんで突然味気なくなってしまうんじゃ!と叫びたくなる。


ただビジュアルとしての面白さはやはり映画を撮りまくってるリュックベッソンだと感じた。登場人物の感情を動物に置き換えたり、モーガンフリーマンの眠くなるスピーチをディスカバリーチャンネルテイストのハイビジョン映像でお送りしてくれるなど、目に訴えかけてわかりやすく作られている点は非常に良い。ストーリーラインがしっかりしていることは映画において重要なエッセンスではあるが、ビジュアルに訴えることは同じくらい重要であるためルーシーは記憶に残るいい映画だと感じた。

後は個人的にキャストにチェミンシクがいたのが高評価。オールドボーイと顔つき変わってない。