あらすじ
マフィアの闇取引に巻き込まれたルーシー(スカーレット・ヨハンソン)は、特殊な薬が入った袋を体に埋め込まれ運び屋にされてしまう。しかし、体内で薬が漏れたことで彼女の脳機能は驚異的に覚醒。脳科学者ノーマン博士(モーガン・フリーマン)が見守る中さまざまな能力が超人的に目覚める一方、少しずつ人間性が喪失し、自らを制御できなくなっていく。
2014年はキューブリック御大の偉大さを再認識させられる年だった。量産される商業映画だろうがパーソナルなマニアックフィルムであろうが、随所にキューブリック作品の息吹を感じさせ、いわゆる通過儀礼になりつつあると実感させられる。
ルーシーにおいてはキューブリック要素はもはやメタファーどころではなく、2001年宇宙の旅のアクションリメイクかと思わせるほどだ。猿が水を飲む序盤のシーンの始まり、モーガンフリーマンの言う「人類は知能を20パーセント覚醒させるイルカに対し道具を駆使して生存する生き物だ」という言葉はもはや武器を手にし進化の理由となった骨であるし、善悪の判断を完全に排除し神的領域で生きるルーシーはもはやHALでありスターチャイルドだ。では導き手であるモノリスはモーガンフリーマンか?2001年宇宙の旅が好きでたまらない人間にとっては結末がない云々はもはやどうでもよく(リュックベッソン監督作品に中身を期待してはいけないシークエンスを楽しむべき)、ニキータやレオンを彷彿とさせるスカヨハの妖艶なまでのアクション、インセプションばりの時空間移動、全体にちりばめられた2001年宇宙の旅等、おいしいとこを集めまくりましたみたいなビュッフェランチ映画(勝手に命名)だと感じた。
しかしビュッフェランチを食って食後に毎度思うのは食欲を満たされただけで本質的な感動は得られていないという点であり、ルーシーでもそれは同じことといえる。ただでさえ多くの映画のおいしい部分を拾ってきたにもかかわらず、脳のリミッターを外してチート使用後のようななんでもあり状態で、これどうやってエンディングまとめんだ?と誰しもが思ったはずだ。結果的にそれは我々を納得するものではなく、視覚的な満腹感は得られたが映画的な幸福感は得られずにエンディングを向かうこととなる。
最後スカヨハはあらゆる概念を超越し神に近づいた。その理由として冒頭の猿と触れ合うシーンがその根拠づけとなる。あの手の角度と触れ方は、途中サブリミナル効果でも差し込まれていたミケランジェロのアダムの創造でしかない。アダムの誕生は、旧約聖書の『創世記』に記された神が、最初の人類たるアダムに生命を吹き込む場面を表現しているとされている。猿とのふれあいのシーンで猿はスカヨハに人間性を埋め込まれたのだ。ってことは我々の神はスカヨハってことになる。
最終的にはI am EVERYWHEREという言葉を残し、時空かあるいは素粒子にでもなったのだろう。限界まで突き詰めれば確かにそうかもしれないが、そんな漠然としたラストで高まるのは時空オタか東大理三男子くらいだろう。
我々単細胞生物(少なくとも東大理三男子から見て)にとってそんなラストが腑に落ちるはずもなく、なんで今までもののけ姫のおっことぬし様的なビジュアルだったのになんで突然味気なくなってしまうんじゃ!と叫びたくなる。
ただビジュアルとしての面白さはやはり映画を撮りまくってるリュックベッソンだと感じた。登場人物の感情を動物に置き換えたり、モーガンフリーマンの眠くなるスピーチをディスカバリーチャンネルテイストのハイビジョン映像でお送りしてくれるなど、目に訴えかけてわかりやすく作られている点は非常に良い。ストーリーラインがしっかりしていることは映画において重要なエッセンスではあるが、ビジュアルに訴えることは同じくらい重要であるためルーシーは記憶に残るいい映画だと感じた。
後は個人的にキャストにチェミンシクがいたのが高評価。オールドボーイと顔つき変わってない。
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