今更だけど。
冷酷なるスタージ(東ドイツの国家安保部隊)のキャプテンが、彼とは正反対の生き方をしている芸術家たちのくらしを監視するうち、しだいに思想がゆらいでいく。
ドレイマン(芸術家)とジーランド(キャプテン)の、体制におもねるのか自分の才能を信じるのか、その狭間でゆれる悲恋が一応本筋としてあり、それを彼らに嫉妬しつつも監視をするウィーズラーが、しだいに自分の理想は社会主義やスタージへの忠誠ではなく、彼らのような自由な生き方であると思い直し、自らの身を呈して彼らを守るため勝負にでる。
冷酷なるスタージ(東ドイツの国家安保部隊)のキャプテンが、彼とは正反対の生き方をしている芸術家たちのくらしを監視するうち、しだいに思想がゆらいでいく。
ドレイマン(芸術家)とジーランド(キャプテン)の、体制におもねるのか自分の才能を信じるのか、その狭間でゆれる悲恋が一応本筋としてあり、それを彼らに嫉妬しつつも監視をするウィーズラーが、しだいに自分の理想は社会主義やスタージへの忠誠ではなく、彼らのような自由な生き方であると思い直し、自らの身を呈して彼らを守るため勝負にでる。
東ドイツが独裁国家だった暗黒の時代、政府は保安という名目のためなら手段を選ばず言論統制を芸術家や出版社に行っていた。それは盗聴であったり買収であったり。バイオレンスのシーンは一切無いが、無言の暴力が存分に描かれている。
盗聴は当時一般的であり、音楽を流して妨害したり外で会合を行うなど市民はあらゆる手を使って政府の監視を避けていた
ドライマンもまた監視されている可能性があったため、友人を西ドイツへ逃亡させるというガセを流し本当に政府が動くか盗聴をチェックした。しかし西ドイツへはなんなく行く事が出来、盗聴はされてないと確信していた。そこで彼らは東ドイツの自殺者の現状を世界に知らせる為に極秘に執筆し始める。使わない時はタイプライターを敷居の下に隠し密かに執筆を続けた。
しかし実際は監視は最初から行われており、情が移りつつあるジーランドが今回だけはと見逃したために作戦は成功した。そのためドライマンたちは監視がされていないと信じ執筆を始めてしまう。
結果としてジーランドの無言の保護もあり雑誌は西ドイツで発売され話題となった。当然スタージの上官はジーランドを疑い始める。最後に至るまでジーランドの裏切りは見抜かれていたが上官も人の子であるため銃殺にせず手紙開封職というパートのおばちゃん的業務に左遷する。しかしそれから4年たってベルリンの壁が崩壊する。ジーランドはもうここにいる意味がないと感じたのかふらふらとその場を後にしビラ配りの仕事を始める。その姿を自由になったドライマンは車の後部座席から見ていた。情報管理室で登頂の記録を調べたところ自分を保護していたのはジーランドだったということを知り、礼を言おうとする。しかしその姿を見て無言のまま立ち去る。今の彼にどんな言葉をかけても伝わらないだろうと感じたのだ。
それから二年経ってジーランドは相変わらずビラ配りをしていた。書店の前を通り過ぎるとドライマンの新作著書がでかでかと広告されていた。長年監視を続けたドライマンの才能はジーランドにとって痛いほど理解していたため、内容が気になった。本を手に取るとタイトルは善き人のためのソナタ。ジーランドが心を動かされたあの曲だ。そしてページを開くと”HWK ××7に捧げる”と表記されていた。これはジーランドのコードネームである。
本をカウンターに持っていくと店員はプレゼント用ですかと聞き、ジーランドは「いや、これは私のための本だ」と答える。
この最後のやり取りのために前の130分があったといっても過言ではない。それほどこの一言ですべてが報われグレーをイメージさせる話の内容と禿げとヘッドフォンを破壊するような一言だ。
名作といわれる所以がわかる非常にいい作品。
しいて言うならばジーランドが善き人のためのソナタを聞いて心を動かされたのならばもっとダイナミックな撮り方をしてもよかったのではと感じた。ただ作品全体を通して穏やかな恐ろしさが漂う映画なので監督がダイナミックな撮り方を嫌ったのだろうと感じた。
「レーニンはベートーヴェンの“熱情ソナタ”を批判した。 “これを聴くと革命が達成できない。この曲を聴いた者は……本気で聴いた者は、悪人になれない”」
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