2015年4月11日土曜日

【映画】バードマン  あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)





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ジャズ界の鬼才アントニオサンチェスのテクニカルなドラミングで映画は幕を開ける。
カーヴァーの一節を、ドラミングに合わせてパラパラとセンテンスを出していく。おしゃれだな、NY的、モダンだ、なんて思った瞬間、隕石のCG,そして海岸にあげられたクラゲたち。なんだこれは。




あらすじ
昔はバードマンなんてヒーロー映画で何億も稼いですっかり俳優面してきたリーガンおじさんが完全に自分プロデュースの演劇を始めるも周りはゴミッカスばかりで、自分は幻聴が使えるし(ほんとはただの厨二病)娘も愛人もわけわかんないし、なんて考えてたらだんだん周りも自分もわかんなくなってきてーズドン。な話。





バードマンはアカデミー賞作品賞を受賞した。イニャリトゥ監督の描く人間の葛藤とどん底は正直あまり好きではなかったが(21gではクソみたいな気分になり、バベルは飽きて寝てしまった)、どうやらバードマンは別らしい。ワンカットで繰り広げられる役者たちの演技のようで演技ではないリアルな叫びを、ブラックに、ユーモラスに、一瞬も気を抜けずに最後まで続き、完全にのめりこんでしまった。
撮影はゼログラビティのエマニュエルベルツキ。どうりでといった感じ。あの息苦しい長回しをさらに長くしたんだからさすがとしか言えない。ここでカットしてんだろうな〜なんてのをなんとなく感じるも基本的に全部繋がって見えるから相当な苦労をして撮ったのを感じ取れる。
全体としてキャストもテーマも安定していて間違いないと思う。
ただ日本の宣伝は相変わらずどうかと思う。金しか見えてない何とも胡散臭いPVで、お前は本当にバードマンを見た上でこの予告を作ってんのか?と問いたくなる。なぜならバードマンは安直な金稼ぎのエンターテイメントに今一度疑問を投げかけるメタフィクション的(直接言わずにあえてフィクションにして客観性を出している)ブラックコメディだからだ。
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おそらく今後多くの人がレビューするだろうし誰が見ても分かる部分は割愛して自分なりの考察を述べたい。






クラゲ
まず冒頭にフラッシュバックのようなサブリミナルのような短く映し出されたクラゲについて考える。
誰だかのレビューでバードはクラゲを食べます。だからいわばそういう意味ですとかいうわけ分からんことを言っていたが、

jélly・fìsh



[名](複~, ~・es)
1 《動物》腔こう腸動物;クラゲ.
2 ((略式))煮えきらない人, いくじなし, 根性なし.

まあ2でしょう。Fishが胡散臭いとかlemonがセコハン(中古)とか英語は結構違う意味が多いので覚えるとこういう時役に立つ。
別の意味を考えてみる。
一つは妻に語るシーンでクラゲが体中にまとわりつき痛くて転げまわったら赤くはれたけど日に焼けたと嘘をついたというシーン(エドワードノートン扮するマイクは能動的に日焼けマシーンで日焼けしている)からすると、クラゲは自分にまとわりつくプライドやレッテル、偏見、凝り固まった考えなのかとも取れる。
二つ目は冒頭、隕石が落ちてくる。なんでこのタイミングで隕石が?途中サムが薬物依存から抜け出すために通っていた学校でやっていたトイレットペーパーに地球の歴史を書き出すというシーンがある(マリファナをして怒鳴り散らした時もやっていた)。クラゲは太古の昔から生きている。キチガイホームレスが時間について説教をしている。ドラミングもどこか太鼓を現すイメージだ。
これらを前提に、なぜイニャリトゥがこのシーンを混ぜたかったのか?と考える。万物は太古の昔から生きていて偉大であるのに我々はなぜいつまでもくだらないことで葛藤し死のうとしているのか?なんてスケールのでかい話とも取れる。あるいは自分は神だなんて言い出すリーガンをちっぽけに見せるエッセンスとも取れるし、あるいは変化に適応しないリーガン(周りの人、所謂サムはSNSを使っているし、マイクは変化を楽しんでいる)を進化しない生物として絶滅を表すというシークエンスなのかとも考える。これについては多くの意見があるだろう。



超人(鳥人)
途中空を飛んだりものを超能力で動かしたりするのは、途中のタクシー運転手のセリフで分かるように自身の妄想だと分かる。(なぜか超能力が使える&幻聴が聞こえるのが絶対に日中なのは何か理由が?)
ただそのバードマンの幻聴はどういった意図があるのか。
おそらくバードマンは素直な自分なのだろう。凝り固まったプライドと偏見で(twitterやらないとかカーヴァーなんて古臭いものにこだわるとかいかにもおじさんらしい)視野が狭くなってるおっさんがバードマンの意見を無視し続けたが、いざ自分に素直になってみたら意外とことがうまく進んだなんて意味が含まれてるんじゃないかと読み取る。だから最後鼻を吹き飛ばしたリーガン自身がバードマンになっていて、便所にいたバードマンはなにも言わなかったのでは?と考える。


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ラストシーン
病室から飛び降りたリーガンはどうなったのか?サムはなぜ上を見て微笑んでいたのか?これは見る人によって様々な解釈ができると思うが、自分なりにいくつか考えてみた。
Ⅰ.本当に飛び降りていて(救急車の音が聞こえる)リーガンは死んだ。サムは薬物依存で同じく          幻覚が見えているor現実逃避した
Ⅱ.リーガンはバードマンになり本当に宙に浮いてしまった
Ⅲ.実は銃で撃った時にすでに死んでいて(テレビの映像が回復を祈っているというよりは死を悼んでいる点、評論家がべた褒めしている点)、病室のシーンはリーガンの想像、理想であったという考え
Ⅳ.宙に浮いてるかのように見せたのは意訳的な表現で、またみんなが見上げるような(リーガンが見下げるような)存在に戻ったという考え

どれが間違いとかはおそらくないが好きな解釈ができるラストだったと思う。



まやかし
最後壇上にいるはずのない路上アーティストやマーチングバンドがスローモーションで映される。あの時うつっているのはみんなエンターテイナーであり、人々を楽しませる人間たちだ。リアル主義のマイクやリーガンも、プライドのないナオミワッツ(役名を忘れた)もそう。みんなまやかしである。だからなんだって話だが、おそらく舞台裏と劇場でガラッと顔が変わったりみんな裏では全然きらびやかじゃなく、あの壇上で繰り広げられてる時間だけがきらびやかでそれはまやかしだよっていみなのでは。ナオミワッツといえばリンチのマルホランドドライブがまさにこれなわけだが、泣き女が泣きわめき、メキシコ人のトランペット奏者が録音のショウを終えると胡散臭い支配人がこれはまやかしですと言って、ナオミワッツの理想(妄想)が崩れ現実にたたき戻される。あるいは同じくリンチのインランドエンパイアでは、映画と現実がごっちゃになって、意味不明な展開になる。バードマンの世界に面白さを見いだせたのであればぜひこの二作品を見ることをお勧めする。ちなみにナオミワッツはマルホランドでもレズビアンになる。


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パンツ一丁でNYを歩くマイケルキートンはすごくアイコニックで痺れたし、怒鳴り散らすエマストーンのおぞましい剣幕とか、エドワードノートンのイラっとする自信家っぷりなんてのも一見の価値があるし、全体を通してとてもよく構成された映画である。ティムバートン版バットマンをやって一度は有名になったものの、そっからあんまり目立った作品がなかったマイケルキートンも、インクレディブルハルクやってアベンジャーズは降ろされたエドワードノートンも、アメスパでヒロインやるもあんま目立たなかったエマストーンも、仕事を選ばないで定評あるナオミワッツも、それぞれがリアルで抱えてる悩みとかうっぷんとか葛藤を全部ぶちまける感じが、ドラミングが如くガンガン伝わってきて、俳優って大変だろうけどいいなあなんておもったりしましたまる。


2015年2月25日水曜日

【映画】アメリカンスナイパー

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クリントイーストウッドおじいちゃんはいつもPTSDについて多くを語る。
それはアメリカが戦う国だからなのか、イーストウッドが共和党寄りのアメリカ人だからなのかは分からない。戦争から帰還した英雄と呼ばれた兵士たちの栄光と闇を描いた”父親たちの星条旗”を始めとし、映画”グラントリノ”では戦争の傷から周囲と距離を置いていた老人が最後の贖罪をする話である。イーストウッド自身、古くは西部劇から現代に至るまで銃を握り(映画内で)、やれるもんならやってみろ(Go ahead,make my day)なんてハードボイルドなセリフを吐いてた人間だから、バイオレンスと精神については人一倍熟考している事だろう。映画許されざる者(1992)でイーストウッドが吐く「人を殺すってことは大変な事なんだよ」というワンフレーズに深い意味を感じてしまう。



大概、戦争は侵略される側と侵略する側によって生じる。そして歴史から見て大概が侵略する側の敗北によって終わる。
アメリカンスナイパーの基であるイラク戦争も、アメリカの被害妄想と石油欲しさによる傲慢さが生んだムダな戦争であった。大量破壊兵器が存在すると勝手に決めつけ、ブッシュジュニアは周りに翻弄されるがままにイラクに兵を進行させ、5000人以上のアメリカ兵を殺した。


結果的に大量破壊兵器など存在せず、9.11との関連性も見られなかった。


おそらくなんの歴史的な知識も無ければ、年に数回しか映画を観ない大多数の人間からすればアメリカンスナイパーは「一人の兵士が活躍した映画」、あるいは「戦争はよろしくない」と捉えて終わるだろう。それでも構わない。ただ、映画は一つ一つのシーンに意味があって編集されている。戦争賛美の映画であればPTSDの患者は映さないだろうし、家族とのしがらみもカットするだろう。如何なる戦争であれ両者は傷つき、またその傷は死ぬまで癒えない。戦争によって死なないで済んだとしても、苦しみを背負っている人間がどちらの側にも大勢いる。たとえば敵のスナイパーにも妻子がいたように。


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最後、クリスカイルを讃えてハイウェイをパトカーが大名奉行みたいに列をなして行進する実際の映像が流れる。豪華なもので路上には星条旗を掲げるアメリカ人やおそらく戦争で足を失った車いすの兵士が旗を振る。どうもそれはイーストウッドによる、戦争で人を殺した人間をこんなに讃えるのはおかしい事ではないか?と提示しているように見えた。異常な光景だと思うのは自分だけだろうか。
またその後にのしかかる息苦しいまでの沈黙のエンドロールが、何も定義せず、あとはお前らの判断に委ねると言わんばかりに投げかけられる。この兵士をたたえるか戦争をする国アメリカをどうすべきか、考えろと。あのエンドロールで退出するようではまた同じように物事に対して他人事の人生を送るだけである。あの沈黙の中、今一度考えるべきだ。我々が今直面しつつある戦争について。もはやISISと接触した以上他人事とは言えない。








映画のテーマであり、戦争の見えない傷である心的外傷後ストレス障害(以降PTSD)は近年その病名がつけられたものの、古くから存在していた。第一次世界大戦後帰還兵がまともな職に就けず犯罪を犯した事実があるし、多くが自殺した。イラクの帰還兵の2割がPTSDに苦しみ、また多くが殺人や強盗など正常な判断が出来なくなっていたという。多くの被害者は妻だと聞く。
またPTSDだけでなく四肢が欠損したりシェルショックによって手足が痙攣してしまいまともに仕事できない人間も多くいた。
映画ファーナスでもイラクの帰還兵である弟はまともな職を得られずファイトクラブのような賭けボクシングで暮らしていた。
ジェイクギレンホールの名演技が光ったマイブラザーでも帰還したトビーマグワイヤが今までと全く違う人間になってしまうという恐ろしさを描いていた。


映画自体は非常に良かった。多くの人が見て何かを感じ取るべきだし、大作だと感じた。
ただ感情移入できなかったというのが本音である。それはおそらく自分が戦場に言ってないからかもしれないしあるいは嗜好が偏ってるからかもしれない。
もっとPTSDの症状を激しめに描いたりどんな苦悩があるのかを強く描いてほしかった。
ただこれはリアリティを追及しているものだしそこを強くしてしまえばそれはもはやフィクションとなり人々の心には響かなくなってしまうから難しいところだが。






戦争の傷は目に見えるものよりも見えないものの方が多い。戦争は最大のビジネスとはいうが、うまい話にはリスクが付き物だ。


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タイトルをアメリカンスナイパーにしたのはあくまでこれはアメリカ側の話であってイラクスナイパーも同じことが言えるよってことか。

【映画】エクソダス 神と王



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150億もの莫大なバジェットと二か月半という短期間でリドリー御大はまたしても尋常じゃない作品をこさえた。昨今イスラエルイラク周辺での問題が目立つが、その混乱の大本にある旧約聖書から二つ目にあたる出エジプト記をテーマに今作エクソダスを作り上げた。






莫大な金と最新技術を練りこんだ今作はおびただしい数のスタッフとともに作り上げられ世に放たれた。
しかしどうだろう。金をかければすごいものは作れるがそれは安直なものになってしまった。
イントゥザストームとやってることは同じである。人間が災害に否応なしに巻き込まれその迫力に圧倒されるだけだ。
また白人がエジプト人を演じるのも無理がある。テルマエロマエと同じ批判を受けてしまっていた。


唯一良かったとすればその天災の金かかってる感と冒頭の戦争シーンか。
歴史的に作る意義があったといえばフォローになるだろうか。

【映画】ブルーリベンジ



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主人公の男は青いセダンに暮らすホームレスである。冒頭数分は全くセリフが無く、孤独な主人公を静かに描く。
ある朝車で寝ていると顔見知りの警官が窓を叩く。主人公の両親を殺した犯人が出所するのだ。
この日を待ち望んていたと言わんばかりに主人公は準備をしだす。この辺りまでで約20分。腕のいい殺し屋なのかと思いきや…
ズボラ過ぎる。
見ていてイライラするほど容量が悪く、ダメダメなのだ。ただ、それが逆に我々観客を映画に引き込ませる。ほら早くしないと敵が!とか後ろ!後ろ!みたいなおっちょこちょいで見てらんない感。
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膝に受けた矢を抜くシーンなんかはかなり笑える。薬局で抜くためのアイテムを揃え、さあ抜くぞってことで抜こうとするが痛すぎて病院に駆け込む。

まあでも普通の素人が殺しをやるとなったらこんぐらい手際が悪いよなと納得もしてしまう。気付いたら我々は感情移入しているのだ。





全編通してセリフはかなり少ない。無駄を省き、間を大切にし、静かに事が進んでいく様は、まるでコーエン兄弟の名作ノーカントリーに近い。
そしてなんだろう、アメリカの田舎町のおぞましさは。彼らによってアメリカの田舎町に行くことがどんどん億劫になっていく。ファーナスでもそうだったが、アメリカの田舎町というどこか土着性のある趣深い画が次に何が起きるのか予測ができず期待させる。日本ではそれはないが。
ポストコーエン兄弟と言われるだけあって、画面に引き込むやり方はうまい。
またレフン監督の息吹もなんとなく感じた。口数は少なくとも煮えたぎる思いだったり、シーンを絵画のように、バランスのとれた撮り方をするあたりはドライヴ好きにもたまらないだろう。インディペンデント感は少なからずあるが、それはこれから洗練していけばいい。90分という短時間かつシンプルなストーリーで、ここまで面白さを出せるのは今後にかなり期待できる。

終始緊迫感と重苦しさに溢れているものの爽快感を味わえる、なんとも不思議な体験はこれからさらに他の作品でも味わいたいと感じる程だった

最後の最後にヴァージニアからの手紙が配達される描写もいい。血で血を洗う復讐劇の本当の終わりを表すようで。

2015年2月19日木曜日

【映画】フォックスキャッチャー







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マザコンかつ自分の思うがままに事を進めてきたスペック主義の不気味な鼻の御曹司と、周りに流されやすいタイプのパワー系筋肉ゴリラ(弟)と男性ホルモンに溢れてるテクニック系髭ラファロ(兄)の話。アメリカは強いという何かにしがみついていた今から30年前に、男たちがそれぞれ欠損した何かをカバーしあう話。







ロサンゼルス五輪で金メダルを取っても、子供達に講演して20ドル貰って(今よりは貨幣価値が高いだろうが)、安い車の中でジャンクフードに貪り付き、家に帰ってもゲームボーイして粗末な生活を過ごし、ソウル五輪に備えぼろいトレーニング場で熱心にトレーニングを重ねる主人公マーク。当時のレスラーはプロになる事は許されず、アマとプロの世界は完全に分かれており、また仕事もコーチぐらいしかないらしく、かなり苦しかったらしい。だがここまで扱いがひどいのは正直驚いた。

一方で兄デイヴは家族を持、ち田舎でコーチをやるなんていう安定した未来を持ち、また技術面でも弟より勝っていた。
自分は兄弟が居ないからその感覚は分からないが、兄弟間の妬み嫉妬は必ずやあるだろう。古くは旧約聖書にもあるように、カインとアベルは妬みが原因で人類で初めて殺人を犯した兄弟とされている。
そんな兄への妬みもあり、弟マークは突然舞い込んだビックビジネスに飛びつく。その胡散臭には何かしら気づいているようではあったが(世話人のよそよそしさなど)、金が入るなら構わないといった態度でデュポンの囲いに捕らわれる。


アメリカの三大財閥であるデュポン家の御曹司、ジョンデュポンは、母から強制されていた馬を嫌い一方でレスリングを愛した。ただそれは母には認められず、自身もレスリングを出来なかったことから、マークを金で所有してコーチという形で金メダルを取り、名目としては愛国心から強いアメリカを体現するとしていたが、結局は自己満足と母に認められるという二つの目標達成がメインであった。レスリングで金メダルを取り、野蛮な種目ではないとアピールする為に。

この三人に共通するのはそれぞれが欠損しているということ、また欠損している部分を補い合っているということだ。マークは両親の愛を受けず兄デイヴに頼って生きていた。だからこそ兄からの脱却、自立。兄デイヴは弟への無条件の愛を送りながらも弟から頼られたいという思い。デュポンは母に認められる為に金メダルの達成。このそれぞれの求めるものが合致すると思われたが、そのピースの形は当てはまらなかった。


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フォックスキャッチャーというタイトルの意味を考える。フォックスキャッチャーとは貴族が楽しむキツネ狩りのことだ。映画の冒頭でも荘厳なBGMと一緒に白黒のキツネ狩りの様子が映し出されていたが、その写真を見ると分かるように、馬に乗った貴族は何もしない。キツネを負うのは猟犬であり、キツネを狩るのは猟犬なのだ。そして狩った狐は貴族のものとなる。
この映画はいわばそういうことだ。大富豪の坊ちゃんが金メダルというキツネを二匹のムキムキの猟犬に狩らせる。


嫌な仕事を他者に任せるのはアメリカ人の気質なのだろうか。古くは大英帝国からプロテスタント達がアメリカ大陸に渡ってきて、アフリカ人にキツイ労働をさせた。カルタゴ人が自分たちの戦争のために傭兵を雇ったように、金さえあれば嫌な仕事を任せがちな所がある。だからこそWASPの城は今や崩れつつあるのかもしれない。
今でこそメキシコ人の労働者は多い。アメリカに旅すれば分かるが、トイレ清掃や工事現場など人が嫌がる仕事は基本的に白人がしている事はまず無い。




この映画のほとんどは静かでストレスなくらいの緊張感と重々しさである。なんで金を払ってそんなことをしなきゃいけないんだと思うかもしれないが、火薬とおっぱいばっかの脳筋映画を見つづけるとそういう人間になってしまう。
その今にも切れそうなピアノ線が如し緊張感を保っているのが、スティーブカレル演じるデュポンである。彼は生まれつき金があったために自身の欲求だけを満たし、自分のドキュメンタリーを作ってしまうようなクズだ。しかもめんどくさいことにひどく愛国者で、ミリタリーおたくという危なっかしい男である。


アメリカ人の血なのか内在するイデオロギーなのかはわからないが、レスリングやアメリカンフットボールのようなアメリカ発のスポーツを見ていると日本とは違う猛々しさを感じてしまう。それはおそらくアメリカ人が日本人のような農耕民族ではなく狩猟民族であり、それが未だ血にまじっているのだろう。






正直全編通して重々しい雰囲気が立ち込め、あまりすっきりしないラスト(間違った形のアメリカのヒーロー)を迎えもう一度みたいとはあまり思わないのだが、不思議と違う役者だったらどう演技するのだろうだとか、実際はどんな事件だったのかなど気になってしまうあたり、私は無意識にこの映画の虜になっているのかもしれない。










試合直前の体力測定で5ポンドオーバーしてしまったマークが兄とともにがむしゃらで減量するシーンはジム欲倍増間違いなし。

2014年12月19日金曜日

【映画】ゴーンガール






 
 
テンポよくリズミカルにダーティなネタをショットガンが如く冷酷に毎回ぶち込んでくるデヴィットフィンチャー。今回もその威力は強大かつ広範囲に風穴をぶち空けた。個人的な見解だがフィンチャーは多分この世が好きじゃない。すごく冷たい目で卑下している。また一方ですごく頭の悪い言い方だがフィンチャーはインテリだ。映画から滲み出ている。ここまで漠然とした感覚での評価しかしていないがそう思う所以を書いていく。
これは良質なホラーコメディだ。誰しもが思う。こんなやべえ夫婦いるかよwwと。しかし気づいてないかもしれないが誇張していたとしてもこれは誰しもがありうる話だ。


ソーシャルネットワークでは早口天パ芸人ジェシーアイゼンバーグを起用しFacebookのCEOマークザッカーバーグの最低で壮絶な設立ストーリーをテンポよく仕立て上げた。伝記物やこういった類のストーリーは退屈になりがちだが常人離れした見事な会話劇と、キャラクターの濃さを活かし大ヒットに導いた。またドラゴンタトゥーの女ではルーニーマーラをダークなハッカーに仕立て、冷たく温度のない殺人のおぞましさを原作のイメージを壊さずリメイクした。
セブン、ファイトクラブ、ロードオブドックタウンと、どの作品にも共通して言えるのは全く飽きない、そして高品質。全ての作品に妥協を感じられず、間違いない作品を生み出してきたデヴィットフィンチャー。
そんなデヴィットフィンチャーだからこそ今回のゴーンガールも期待値を高めに鑑賞。
予告を見た段階である程度オチを予測していたのだが、それは遥か序盤で通り過ぎ、期待を裏切られた(いい意味で)。


まず予測していたのはマスコミの煽りによって主人公が狂わされていくというシナリオだ。これは中盤で使われる。それ故に私のキャパを超えた後半はこの後どうやって風呂敷まとめんの!?と食い入るように見ていたがさすがはフィンチャー、全てを一つにまとめ、そして冒頭に繋げるというまたにくい演出をしてみせた。
それもマスコミに踊らされるアメリカ人のバカさ加減を織り交ぜながら描いていたのは笑えた。テレビが右へといえば右へ、左へといえば左を向く。アメリカは日本よりマスコミのあおりが激しい。コメンテイターはことを大げさに説明し司会者は5倍くらい盛った話をして視聴者を喜ばせる。フィンチャーはその現状を痛切な批判を交えながら描いた。
ナンシーグレイスショーという番組がアメリカにある。未解決事件や失踪事件を番組が勝手に独断で裁きを下すというもの。それもすこぶる過剰で、二歳の子供が行方不明となった母親に対してお前あが容疑者だろうと責め立て、その結果母親は自殺に追いやられた。おそらくナンシーグレイスショーのような過激な番組がゴーンガールのもとになっている。



正直ネタバレなんかはここに書かなくても見れば分かるのであえて書かないが、見終わって思うのは男と女は全く別の生き物ということ。同じ哺乳類であっても男が完全に女性に社会的な地位で勝てても、家庭では女性が君主になる。誰だってそうだ。そうやって古来から成り立ってきている。そのヒエラルキーが成り立たない家庭は崩壊する。だからこそ結婚に人々は苦悩する。俺はこいつで良かったのか?と。
男女の関係を経験した事があるなら誰しも共感できる意見の食い違い。なんで意見がこうも食い違うのでしょうね。それは男と女は違う生き物だから。こう考えるしかない。
エイミーのこれが結婚てもんよというセリフ。恐ろしいけどあれこそが真実。
男女のカップルがデートでゴーンガールを見に行くことはリスクが伴うが必要だろう。なぜかって?男は浮気したら嫁は失踪しかねなくなるからだ。

 
二時間半という長丁場ではあるがそれを感じさせない洗練されたフィンチャー空間を映画館で楽しんで欲しい。人によってはスカッとし、人によっては恐怖を覚え、ある意味パーソナルな映画だと言える。 
ゴーンガールのタイトル、行方不明の妻はもちろんだけど、イカれた妻とも取れるから面白い。
 

2014年12月17日水曜日

【映画】フューリー






生涯で見た一番恐ろしい映画はプライベートライアンである(ちなみに2位は小野寺の弟、小野寺の姉)。ジュラシックパークやスターウォーズを見て、スピルバーグ監督はなんと冒険心とクリエイティブな魂に溢れている監督なのだろうと満ち足りていたが、同監督ということでプライベートライアンを見てどん底に落とされた。吹き飛ばされた自分の腕を持ち頭がイカれて右往左往する兵士、臓器がはみ出てママ〜と叫ぶ兵士、戦車で木っ端微塵になる兵士、狙撃兵同士の静かな戦い。まるで今まで優しかった近所のお兄ちゃんが実は犯罪者だったくらいの衝撃である。プライベートライアンにより私は戦争の無慈悲さを学ぶ。
またキューブリックのフルメタルジャケットで戦争の下劣さを学ぶ。それも説教的なセリフや主人公補正的な物を完全に削ぎ落とした徹底的にリアルな物によって。

戦争は人類が本来備え持つバイオレンスの精神が生んだ文明人の交渉の形だ。我々は物を保有するという概念を生み出して以来、奪い、吸収し、国家を形成してきた。結果として人類は言語とバイオレンスにより強者になったといえよう。
その避けては通れない戦争という分岐点を語る映画は数多くある。ミリオタ万歳な兵器や銃が盛り沢山な映画もあれば、戦争を淡々と語る映画、あるいは戦争はあってはならないと教訓的に語る映画。挙げればキリがないが毎年数多く量産され消費される。
今回のフューリーもまたその数多く量産されるB級映画の一つのなりえた。しかし結果としてそれは今までとは逸脱した究極の戦車映画としてデビッドエアー監督に生み出される。

あらすじ
1945年4月、ナチスがはびこるドイツに総攻撃を仕掛ける連合軍に、ウォーダディーというニックネームのアメリカ人兵士がいた。カリスマ性のあるベテラン兵士である彼は、自らフューリーと名付けたアメリカ製の中戦車シャーマンM4に3人の兵士と一緒に乗っていた。敵国ナチスは追い詰められ女子供も兵士として使うほど緊迫した状況下にあった。そんなある日、ウォーダディーの部隊に新兵ノーマンが加わることになる。


今までと一線を画す要素として一つ挙げられるのは戦車ということにある。ここまで戦車にこだわりきった映画は今までなかった。そもそも映画で使われる戦車は大抵フェイクであり、本物はほとんどが対戦の被害でなくなってしまった。殲滅されてしまったナチスにおいては戦車なんてほとんど残っておらず、今回出てくるティガー戦車なんかも元から生産された台数が少なかっただけに皆無に近かった。しかしイギリスの戦車博物館にほぼ新品の状態で保存されていたティガー戦車の存在を知ったエアー監督は何とか使わせてくれと頼み、今回映画内で本物の戦車が使用されることとなった。私は熱心な戦車オタクではないし仮にシャーマン戦車が抽選で当たって自宅に届こうが物置にしか使わないだろう。しかし日本のミリオタは大歓喜らしく、フューリーの評価は非常に高い。

私が評価したいのは役者の演技だ。いや、演技の姿勢といったほうがいいか。
ブラッドピット達の五人のメンバー(1人は死んだ)は長らく大戦を戦車の中で共にし、日々死を枕にしながら生き延びてきた。そんな極限状態を今までセレブリティな暮らしをしていたのに突然演技として表現するのは無理だということで、一家代々兵隊の生まれのデビッドエアー監督は、ブラピ達一同を戦車の中で寝泊りさせ、また撮影の直前まで殴り合いをさせた。そうリアルファイトクラブである。しかもその様子は一切映画には出てこない。殴り合いをさせ、バイオレンスを身体に染み込ませ、猛々しいエネルギーを身体中から放出するために監督が考えた役作りの術である。シャイアラブーフにおいては気が狂い、自分の顔にナイフで傷をつけたり歯を抜いたりした。結果として彼らは家族となり、台詞や演技の表面上だけでなく本当に昔から一緒にいるかのような連帯感をスクリーン越しに醸し出した。

残念なところといえば主人公補正が強すぎるという事か。2.300のナチスに囲まれても五人で無双するラストシーンは少し無理があるかと思うがハリウッド映画の性質上避けられない。とはいえドイツ側から見たらひどく複雑な気持ちになるだろう。

最後主人公ノーマンは戦車の下に隠れてナチスをやり過ごす。しかし一人の若いSS将校に見つかってしまう。だが極悪非道なはずのナチスはにっこり笑って見なかったことにする。もう敗戦を目の前にして無駄な悪あがきをしない未来の見据えている兵士か、あるいは極悪なナチスも結局は人の子で慈悲だって持っているという意味か、あの若き将校はかつてのノーマンがそうであったようにまだ子供を殺せない殺人マシーンになっていないSSで自分と年の近いアメリカ兵を見てにんまりしたか。結論は見た人間にのみ委ねられるだろう。

ブラッドピットの、「理想は平和だが、歴史は残酷だ」積極的に使っていきたい私生活とかで。
個人的にはラッキーストライクをジッポで吸ってるあたりがドツボ。