2016年4月26日火曜日

【映画】レヴェナント

復讐劇の魅力。
それはカタルシスを得られることにある。
アリストテレスは悲劇のカタルシスを唱え、医学界でも苦痛を浄化する際に用いる。

映画におけるカタルシスといえば、どう考えても乗り越えられない状況や障害を紆余曲折あった後に乗り越える展開が王道だ。


言わずもがな本作は復讐がテーマだが、その対極にあるものは何だろう。

平和、愛、許し、平穏、神、母性、自然?

復讐は人類固有のものであり、その対極にあるのはやはり自然=神なのかもしれない。

そうなると本作では自然という土台の上で、ちっぽけな憎悪がもがくというプロットだと整理できる。
復讐をガソリンにして過酷な環境下で生き延びたというのも一理あるが、やはりテーマを思えば復讐ではなく自然に帰化する(もともと大地はネイティブアメリカンものでありアイルランド系の移民たちはよそ者でしかない)ために生かされていたとも取れる。
結果としてキャプテンとは違いヒューグラスは妻の顔を最後まで覚えていられたのかもしれない。

ソ連の監督タルコフスキーは、朽ち果てた教会を映画『ノスタルジア』で描き、それを自然と神の一体として表した。
教会が無傷で存在することは人口物と自然体の決別であり、2つは全くの両極端であるが、教会が朽ち果てることで二つが一体化する。タルコフスキーはそういった美学をすべての作品にちりばめた。

タルコフスキーは作品において女性を宙に浮かせる描写を好み、自身はそれをセックス以上の愛と述べている。

『鏡』(1972)『惑星ソラリス』(1974)『サクリファ イス』(1986)にみられる「人が空中に浮かぶ」表象は、彼の映画の本質に迫る 重要な要素の一つである。彼の作品には一見、合理的には意味を掴みにくい表 象が随所に溢れているが、まさにそれが観客を魅了することも事実である。不 意に現れる室内の雨、時間軸の変化、淀んだ水のカット、廃墟に表れる白い犬 といった、唐突だが意味ありげな表象の出現は枚挙にいとまがない。これらは 何を象徴するのかという数多くの問いかけに、基本的に監督は、「それらは象徴 ではなく比喩であり、スクリーンの中で起こっていることは現象である」と答 える。
(出典:アンドレイ・タルコフスキー作品における 空中浮揚の考察―時空の超越)

本作では突然妻が浮いたり朽ち果てたカトリックの教会が出てきたり不可解だとは感じるが、事前にイニャリトゥがタルコフスキーのイメージを撮影監督のルベツキに渡していたあたりからかなりタルコフスキーに寄せていく予定だったのだろう。

唐突な隕石についてもタルコフスキーの『ストーカー』で同じような描写があるし、死んだ妻の胸元から鳥が飛び立つという描写も過去に描いている。
以下動画を見ていただければオマージュということが分かる。
https://www.youtube.com/watch?v=cpcdhNq_VPM

タルコフスキーの描写をここまで用いるのはイニャリトゥ本人が尊敬してやまない監督という事と本作レヴェナントでは自然と愛テーマであるがゆえに必要だと感じたのかもしれない。

ここまで御託を並べてきたが、正直言って
「ディカプリオ先生のここまでやります!サバイバル講座」にしか見えなかったのは言うまでもない。ここまで体を張って主張しないとアカデミーは取れないのか。もはやこの世の嫌な役は洗いざらし、なべて演じたであろうディカプリオを、まるでタオルケットで温めてやるアカデミー会員の爺様たちがが目に浮かんだ。

なぜそうまでしてアカデミーがほしいのか全くわからないが、追い詰められた極限状態の人間の目の演技はいつも素晴らしい。









おまけ
熊の正体


2016年4月11日月曜日

【映画】ボーダーライン



一昨年、鉄パイプで殴られて目の前が真っ白になったような衝撃を受けたすさまじい作品があった。リドリースコットの悪の法則(原題:Counselor)だ。足を踏み入れてはいけない領域に軽い気持ちで土足で入り、骨の髄まで吸い尽くされるおぞましい話で、正直人生の10本にランクインするほどの衝撃を受けた。リドリースコットの作品といえば一貫して踏み入れてはならない領域に調子に乗ってずかずかと入り込んだ結果ひどい目に合うという作風が主となる。科学でほかの惑星に踏み込んで大変なことになるエイリアンシリーズや、兵力をもってしてアフガンに攻め入ってボコボコにされるブラックホークダウン、ほかにもブレードランナーグレイなど、いってしまえば苦労する話が多い笑
本作ボーダーラインの監督ドゥニビルヌーブ(名前が覚えられない)はブレードランナーの続編の監督に抜擢された、いわばリドリースコットの申し子なのだ。ブレードランナーといえば私の人生の一作でありあのカルチャーを十分滲ませてふやけさせたのが今の私であり、酸素の次に不可欠な作品である。
それを監督するというならば次の作品は厳しい視点でジャッジするし、さらに言うならばリドリースコットが悪の法則で確立した麻薬戦争作品というひそかなジャンルを踏襲しているもんだから期待値は高まるばかり。
もちろんプリズナーズで社会問題に対して核として存在する問題と恐怖を批判的ではなく至極客観的に描く作風については圧倒され済みだったので普通以上の面白さは得られるだろうという生半可な心持で劇場に赴いた。

いい意味でその期待は粉々に破られた。
いうならば、画面と目玉が金縛りにあったかのように釘づけにされた。
見終わってからどっと疲れが沸き上がったが興奮して映画に対して頭の中で言いたいことを言いまくった。あれはどうやって撮った?あいつは尋常じゃないキャラクターだった、あのシーンはなんのオマージュか?テーマこれだろうか?どういう意図であの構図にしたのか?
普段であれば鑑賞中にあれこれ考えるのだが、今回は見入りすぎて終わってからけたたましく振り返ることになってしまった。
帰り道は幾度となくシーンを思い返してしまうという初恋のような気分を味わった。

メキシコとアメリカ
アメリカは徐々に大麻の規制が外れごくわずかに医療目的で認可されていたものがだんだんと嗜好目的で許されるようになってきた。
その理由として
①大麻は自然物であり、中毒性も皆無に等しく、害をきたすものではないと研究からわかったため
②麻薬戦争の日を消すため

以上に点が主な理由としてある。

一点目については大麻が極悪ダメ、絶対と刷り込まれてきた我々日本人にとっては目から鱗な話だろうが、古くは日本でも大麻は普通に栽培されていた。それが第二次世界大戦後マッカーサーが来てから大麻は悪いもんだからやめときやと言われ規制された。
映画をよく見る人ならわかると思うが、大麻を吸うシーンはたびたび出てくる。ニューヨークではセントラルパークで昼間から吸ってても警察は特に何も言わないらしい。あのオバマも吸ってたと公言している。→リンク

二点目については興味がある人はご存知の通り、メキシコは麻薬戦争のさなかにある。メキシコは大麻を栽培してアメリカに流しその際のテリトリー争いなどで、5年間で約5万人の人が死んでいるという、もはや内戦レベルの問題になっている。

それを物語るかのように、全編を通してメキシコ人達は目の前の惨劇に逃げ惑うわけでもなく悲しむわけでもなく、まるで日常の一部かのようにすべてを諦めている。毎日何十人もの親族や知り合いが死に、人々は完全に疲弊しきっている様子が伺える。ポーランドのように内戦になってしまえば、難民や他国からの援助など法的な手段を取れるが、麻薬戦争というグレーゾーンな戦いだけに他国も派手にやれないことが難しい問題だろう。

一方のカルテルはといえば人が埋まった壁の前でスマブラやってたり(スマブラかどうかは不明)捜査が来るとわかって鍵の欠けた納屋に爆弾を仕掛けたりと殺戮を楽しんでいる。
悪の法則でもカルテルはワイヤーを巻き取って首を絞める不気味な機械ボリートを使ったり、この仕事ユーモアが大事だよ!といって死体を身内に送り付けたりする野蛮さ。この世界にはモラルなんてものはこれっぽっちも存在しない。

正義とは人にとって都合の良いものを表す。それは政府でも、宗教でも、アメリカンコミックでも語り継がれているので、もはや周知の事実だろう。正義の反対はまた違う正義と誰かのお父さんが語るように、完全な悪など存在しないはずなのだ。
アメリカ人が害悪ととらえる部分はメキシコ人にとっては日常であり、悪とは思っていない。むしろ生活の基盤を奪おうとわざわざ隣国から口を挟むアメリカこそがここでは悪なのだ。
アメリカという国は人の国の政治に口を挟む。イラク戦争ではオサマビンラディンを復讐として殺害した。本来の目的は油だったのだが。
今作でもFBIは国内での問題解決が目的とされているにも関わらず、メキシコのフアレスまで軍隊並みの装備でわざわざ行ってトラブルを起こして帰る。
正義という二面性だけでなく映画では様々な二つの側面とその境界線をクローズアップする。光と闇、アメリカとメキシコの国境、善と悪、男と女。考えさせられるのはいつなんどきも物事は一つの側面から見るだけでは全体図は見えないということ。両方の目を大きく開けることが重要なのだ。









最高のシーンの連続
もはや国内での問題解決にとどまらず戦争レベルの戦いが繰り広げられていると冒頭でも述べたが、ヘリコプターでメキシコの上空を飛ぶカットや、国境線を隊列をなして進む姿は、まるで地獄の黙示録ブラックホークダウンだ。

作中フアレスを「野獣の街」と紹介するように、BGMもまるで獣が喉を鳴らすような低音の地響きがシーンとリンクし緊張感を高める。
住宅街で起こっている事とは到底思えないすさまじい冒頭5分で一気にハイボルテージになり、文字通り最後の最後までピンと張られたピアノ線のように緊張感が続く。硬い椅子で見れば肩こり必至だろう。

プリズナーズでもこの監督は観客の想像力を利用しておぞましさのボルテージを上げる。
例えば人を殴るシーンを映してしまえば上限はそこまでだが、鎖を拳に巻き付けてにらむシーンでカットすれば観客の想像力によって上限はゆだねられる。監督は何も役者に血のりを塗りたくってアクションをさせなくても素材だけ用意しておけばいいのだ。

例えばカルテルトップ2を護送して拷問するシーンでは、ポリタンクを片手に過去に何らかのいざこざがあったことだけを知らされカットされる。その後男がどうなったかわからない。顔に布を乗せられて水を死ぬほどかけられるか、指を一本残らずつぶされるかは観客にゆだねられるのだ。ロジャーディーキンスが以前撮ったノーカントリーでも観客にゆだねられるシーンがあった。主人公の妻のもとへ殺し屋が来て話をして次のシーンでは殺し屋は靴の裏を見る。それだけで妻が殺されて血がついていないか確認しているということが分かる。

この映画で最も恐ろしいのは赤いTシャツに首までびっしりタトゥーの入ったカルテルではなく、モラルを失った人々でもなく、卵とコーヒーが好きな警官の父ちゃんでもなく、ラスボスを殺しても終わらない戦争の原因がそもそもアメリカにあるということだ。普通の映画だったら敵の大ボスを倒せば平和な人々の笑顔がスローで再生されてみんな笑顔でそのままエンドロール。しかし誰一人として喜んでおらず、サッカーグラウンドでは今日も変わらず銃声が響く。ラスボスを倒したところで何も解決せず、本当の脅威は物理的に抹消できるものではないのだ。
最後にタイトルが画面いっぱいに表示される。
そう、まだ何もおわっていないのだ。



2016年4月3日日曜日

【映画】バットマンVSスーパーマン






ダークナイトを初めて見たときに感じたのは、バカみたいにビビットな配色のスーツで世界を救う軽佻浮薄なヒーロー映画がアメコミ黄金時代に量産されすぎて、ここまでデコンストラクトしなければ成立しなくなってきているということだった。

以降ザックスナイダー自身もウォッチメンを通して「監視者を誰が監視するのか」という一歩引きさがったリベラルな考えを映像化し、絶賛された。
ウォッチメンでは最強の男Dr.マンハッタン(本作でいうスーパーマン)と正義でありながら政府のあり方に疑問を抱くリベラルなロールシャッハ(本作でいうバットマン)がヒーローのあり方について見直しており、今後公開されるキャプテンアメリカシビルウォーでもこの考え方を引き継いでいるようだ。


正義の二面性についてはもはや子供でも理解しているように、誰かの正義は誰かの悪であり、万人を救う、万人の正義であることは不可能であるということは世界を見ればわかる。宗教がまさにそうだ。

民族個体に対するご都合主義で作られた宗教の価値観の相違で民族間紛争ないしは内戦が各国で勃発している。さらには主教間の違いはテロを生む。
そういったバックグラウンドを念頭に本作を見ればザックスナイダーの本作に対する意図が見えるはずだ。


自分はワーナーブラザース擁護派の人間なので、色眼鏡で本作を見てしまうが、世界的にはどうやら批判が多いらしい。特に原作を愛しているファンたちの間では一体全体どうなってんのとブーイングしているのがロッテントマトを見ればわかる。
自分は結論から言えばそこまでひどいものだとは感じなかったが、夢落ちとか前半のアクションのなさとか根本的に構成がよろしくない箇所が多々見受けられた。

しかし、9.11を明らかに意識した冒頭シーンや、移民問題を浮き彫りにしたテーマなど、アメリカの現状を反映させながらコミックをベースにして見事に映像化したと感じた。ドナルドトランプがイスラム教徒を入国させないと声高らかに言うのは、移民によるテロの可能性を少しでもなくすためであり、スーパーマンのような宇宙難民が内戦を国内に持ち込むのを恐れているのがまさに現実を反映していた。事実、議会ではテロが起きる。

スーパーマンはクリプトン星の内戦から逃れるために地球にゆりかごに乗せられて田舎の百姓に拾われ、人民を導く存在になる。それはモーゼの生い立ちと同じことであり、作者がユダヤ系だったことに由来する。そして人類を守るため自らを犠牲にする。スーパーマンを下すシーンは名画ピエタであり、後ろには十字架、使うのがロンギネスの槍、埋葬のシーンではアメージンググレイスと超キリスト教的だ。ここまで宗教色を強くするとその方面の人が起こりそうだが(もう怒ってるか)自分は無神論者なので傍観して楽しめた。

なにはともあれ、アベンジャーズのようなコメディ第一ついでに世界救ってますみたいな作風とは裏腹に、終始一貫してくそまじめで、出てくる笑いといえばと言ったらワンダーウーマンをお前の連れ?って言うか、みんなが必死で戦ってるのに一人逃げ惑うバットマンのドリフ感くらいだろう。
おそらくそれはDCとしてのヒット作が一つもなく、どんどん力を強めるマーベルに対する焦りであり、ジャスティスリーグへの布石を意識しすぎた必死感が原因としてある。
一言いうならばWhy so serious?かね。
あとワンダーウーマンイケメンすぎ(5000歳)

2016年3月28日月曜日

【映画】リリーのすべて

LGBTの理解がより一層進み身近なものになっていく。
今年に入ってからすでに3,4作はそういった類の映画が公開されている。

つい最近公開されたキャロルではレズビアンを中心に、批判や差別を乗り越えた二人が美しく描かれた。

今作はトランスジェンダーというマイノリティの人々にフォーカスを置く。
トランスジェンダーとは生まれ持って性とは逆の肉体を持つ人々をさす。劇中の言葉を借りるのであれば神様が入れ物を間違えたのだ。
エディレッドメイン演じるリリーはある瞬間をきっかけに自分は女性の魂を持っていることに気づきいてもたってもいられなくなる。そして世界で初めての試みをするというストーリー。

全編通して意図的に絵画のように見せる映像やしぐさ一つ一つが女性の自然体でしかない演技などため息の出るような映像美の連続でアート好きにはたまらないだろう。

しかし映画というものは不思議と中心となる人物がどうしても補正がかかって擁護されてしまう。
もちろん性転換手術を受けるという勇気は素晴らしいものであるし、人生を放棄する勇気が必要だ。それはともかく、主人公は周りを全く配慮しない。取り残された妻の前で昔興味のあった男に言い寄ったり、結婚していたことをまるで記憶喪失かのように否定したり、悪く言えば都合がいい。

もちろん女性になったからには妻という関係性は少しおかしい。ただそれを切ないラブストーリーという言葉で丸め込めるのはどうかと。

キャロルでも男は総じてくずのように描かれていたが、逆の視点からみると女が勝手なように映る。


一つ一つをピックアップすると素晴らしいが、全体をまとめたストーリーはあまり腑に落ちないものであった。

2016年3月16日水曜日

【映画】マネーショート








事前に内容が難しいという事は聞いていたので、マイケルムーアのキャピタリズム“マネーは踊る”を見て勉強してから臨んだ。

本作で感じたのは、サブプライムローン資本主義のメカニズムから避けては通れないガンであり、人は有史以来目の前の欲に勝てるほど強く作られていないということ、金融界では(あるいは万物は)昨日までの当たり前は瞬きした瞬間に当たり前ではなくなりうるということ。

難しい用語を理解したところで感じることは理解していない状態と何も変わらない。この映画は誰が見ても異常な世界が、少し前に存在していたということを痛感する。

そして一時的な処置を施しただけで、それはまたすぐに発生し得る。

何故なら人は欲に勝てるほど強く作られていないからだ。

サブプライムローンについて理解できない人はおそらく多い。自分もすべては理解していないが自分なりに分かりやすい例を。

2005年にSupremeというブランドが爆発的に人気が出た。店は出せば売れるし、買った人は買値より高く売ることが出来るという夢のような服だった。しかしSupremeは元値が高い。庶民には手が届かない値段だ。だから人々は銀行にお金を借りてSupremeを買った。収入が安定してない中学生ですら金を借りて5着も買った。
いずれ値段が上がるという事で証券会社はSupremeを売る権利(ローン)を買い取った。
証券会社はさらにそれをいくつかまとめてレベルの高い商品(AAA)としてリリースした。しかし実際中身は支払い能力の低い日雇い労働者やストリッパーのローンでありBやBBBというクソみたいな債権で出来ていた。
そしてブームはいずれ去る。Supremeは作られ過ぎた。2007年にバブルが弾ける。
何着も買われたSupremeは差し押さえられ、証券は紙クズと化した。
証券会社は当然見返りのない紙クズを前に呆然とし破産した。
本来は証券は暴落した時の救済措置として保険(CDS)を買うことが出来るのだが、Supremeは安定したブランドという事で誰もCDSは買わなかった。
しかし先見の明を持った1人の男が大量の金をSupremeのCDSに注ぎ込んだ。その考えをいち早く事態の異常性に気付いた数人の変人に知れ渡り、CDSを買い込んだ。
結果として変人たちはSupremeを信用しなかったが為に大量の金を手に入れた。
当たり前になる事はとても恐ろしい。
平和がある時急に脅かされたら?収入がある時途絶えたら?電波が飛ばなくなったら?
それに対する処理を私達はしているだろうか?
忘れた頃に災害はやってくるとは言ったものだ。

フォックスキャッチャーでスティーブカレルはこれまでのコメディアンの仮面を取って代わりに鼻をくっつけておぞましい資産家を演じた。
本作でも兄を亡くして疑心暗鬼になるヘッジファンドを巧みに演じている。
毎度肉体改造で役者魂を燃やすクリスチャンベールは孤独な金融とレーダーとしてアスペルガー的で表現が下手くそなキャラクターを絶妙に演じていた。中でも好きなのは歯を磨いてゴミ箱にペッしたり、メタリカを爆音でかけながら裸足でウロウロする姿。エキセントリックで魅力的だ。ただ単に激昂したり喚いたりする役よりもはるかに難しかっただろう。

本作はアメリカの過去と国民性を巧みに反映する良い材料だ。マイケルムーアのボーリングフォーコロンバイン、アメリカンフードネイション、マネーショートさえ見ておけば、アメリカの根底にある”恐怖”が理解できるだろう。

俺もそろそろ Supreme 売るかな〜

2016年2月21日日曜日

【映画】キャロル







1950年代のニューヨークを舞台に、百貨店のおもちゃ売り場でアルバイトするテレーズ(ルーニー・マーラ、Rooney Mara)が客として現れたキャロル(ケイト・ブランシェット、Cate Blanchett)に惹かれ、恋に落ちるロマンス映画。



本作の背景
1950年代アメリカは第二次世界大戦後、まだきらびやかでもなくソドミー法により同性愛は禁止されており、ましてやキリスト教では同性愛は絶対悪なので許されるものではなかった。

昨今LGBTに対する理解や意識は進み、あるべき姿に忠実であることが重要視されてきた。渋谷区のパートナーシップ条例や、パナソニックの社員規定の改変、アメリカは西海岸の同姓婚認可などまだまだ一般的ではないが徐々に当たり前になりつつある。
1952年に刊行されたパトリシア・ハイスミスの原作がベースとなっており、弾圧を避けるため初は偽名を使って出版されたそう。内容はかなりフェミニスティックで、登場するオスは総じてクズ。しょーもない男だけを抽出したような(いや事実男はどいつもしょーもないのかもしれない)女性にフォーカスされた内容となっている。
それだけに二人の愛が際立って崇高で美しく、いつまでも浸かっていたい、そんな美しい話だ。

二人の美しさをさらに際立たせるのが16mmフィルムで映し出される画。撮影監督エドワードラックマンは以下のように語る。
「今やデジタル処理によって(フィルムの)粒子を作り出すこともできるわけですが、それは固定された画素(ピクセル)に過ぎません。フィルムの物質的な粒子はもっと表現豊かなレイヤーを加え、それは登場人物の感情表現にも影響します。(中略)私がデジタルではなくフィルムを選ぶもうひとつの理由は色の描き方にあります。たとえば冷たい窓と暖かい照明を室内で撮る場合、デジタル撮影ではその組み合わせをフィルムと同じように撮影することはできない。私はフィルムの粒子によって得られる暖かい色と冷たい色の交差や混成をデジタル映像には見出せないのです。現在はクロースアップを撮るのに長いレンズが好まれていますが、サークは25mmか35mmの広角レンズを使って、登場人物を階段の手すりや戸口やセット建築を背に束縛するようにして撮影していたそうです。トッドはワイドアングルのほうが全てが目に入って、圧迫感がでると考えていました。俳優をカメラの視点から逃げ場がないような状態に置くわけです。そうすることで登場人物たちは、まるで今の生活環境に捕えられているかのように、フレーム内での身の置き所を制限されるのです。しかし一度だけカメラが移動し、キャシー(ジュリアン・ムーア演じる主人公)が解放され、ある人物とふたりきりでいることが許される場面があります。それは彼女がレイモンド(黒人の庭師)と屋外で会うシーンです。カメラはそのエモーショナルなやり取りを移動撮影で捉えます。そして彼は彼女にふたりは交流することができないと告げます。そのときのふたりは屋内に閉じ込められていないにも関わらず、互いに隔たれた場所にいるのです」

光がやわらかく包み込むような見え方のするフィルム撮影を採用することで、はっきりとつかめない、でもそこに確かにある二人の愛が上品かつやさしく描かれていたと感じた。



またアカデミー衣裳デザイン賞を受賞したサンディ・パウエルが手がける50年代スタイルがとにかくスタイリッシュで目に訴えかけるものがある。
小物や車などデザインの頂点とも言える50’s。テレーズのファッションの変化が彼女の内面の変化、またキャロルに惹かれキャロルを意識したスタイルになる様が、かわいらしく切ない。


最後、キャロルの口癖である「いかが?」を振り切り「もう私はNOといえる女なのよ」と、自分に素直にならずに若者のパーティに向かうテレーズ。しかし彼女の頭の中には後悔しかなく、自分に素直になることの恐怖と戦っていた。禁断の連らいをすることは生涯が多く待ち構えていることは言わずもがな。それでもテレーズはキャロルのもとへ足を運ぶ。二人は言葉を交わさず目ですべてを感じ取る。
本作のキーワードは目。無垢なテレーズの目と大人になったテレーズの目がまったく違う。キャロルも離婚騒動で振り回されているときの目は普段の妖艶さとは打って変わってティーンネイジャーのよう。





2016年1月20日水曜日

【映画】It Follows









生き物は何億分の一という天文学的な確率でこの世に産まれ、死という避けては通れない必然に対し、もがきながらそれぞれの人生を歩む。


しかし残念なことに、あるいはラッキーなことに、死は不可視なものであり、突発的なものでもある。

ならば死が見えるものだったのならどうだろうか?


本作ではセックスをすると”何か”がついてくるようになる。

違うと誰かと性交しなければ”何か”は延々と追いかけてくる。

口にしてはならない怖い話として有名な鹿島さんに酷似しているのは否めない。→鹿島さん


主人公ジェイは偶然出会ったイケメンとカーセックスとしてから”それ”に追いかけられるようになってしまう。




仲介する媒体がセックスというだけで、ビデオテープとか一時期流行った5人に回さないと死ぬチェンメとか、基本は清水監督のリングともベースは同じだ。

アメリカ映画には珍しく、セックス中にスローモーションで彼氏の頭が粉々に吹っ飛んだり、ラテックス素材のクリーチャーがダッシュで追いかけてくるみたいな安直な表現は一切無い。
ただまっすぐと主人公の元へ”それ”は近づいてくる。
至極日本的なホラーだ。


本作は初めて片手で数えられるくらい少ない劇場で公開されたが、何がテーマなのかわからないと若者の間で話題になり、あのタランティーノまで熱中させるまでに至った。確かにタランティーノが好きそうなアイテムの数々と無駄なセリフの連続。さらには監督に自分の感想とダメ出しまで送った始末。

タランティーノほどの大物にダメ出しを貰えば普通はへいへいとへり下るものだが、この監督、自分のメッセージとタランティーノの認識齟齬が許せなかったのか反論したのだ。
しかしその反論が素晴らしく、この映画を理解する上で重要なキーワードとなる言葉を漏らす。


http://defamer.gawker.com/a-conversation-about-it-follows-2015s-first-must-see-h-1691215470


死をテーマにしているという事であれば、様々な箇所でのつじつまが合う。

死を遠ざけるために無駄なセックスをしたり、死と立ち向かうために本物の愛を育む。


自分にとって本作はが重要なアイテムだと感じた。


に関しては意図的に注目させようと映していると感じた箇所が幾度となくあったのだが、どんな意味があるかは監督は公言していない。

思うにイケイケの彼氏を手に入れてカーセックスをした主人公が事後にぺんぺん草みたいなのをさするシーンはまだ無垢な少女を表し、腕を骨折してギブスをはめている手は傷付いてがむしゃらになっている主人公を現し、ポールと繋いだ手は死に立ち向かう強さを表すのではないかと思料。正直手とか表情とかはどうとでも取れるし、どのように感じ取るかは個人の自由だろう。

については初め浮かんでいたプールは最後には水が抜かれていたり、それを沈めたのもプール、冒頭の少女が波打ち際で死ぬなど何かしらの意味がありそうだ。日本の幽霊が水場に現れるのを意識してるーというのも考えられる。



内容やメッセージ性は勿論の事、カメラワークとガジェットのこだわりも尋常じゃない。

貝殻型の読書デバイス(これは存在しないらしい)、あえてブラウン管のテレビ、70年代的なヨレヨレフォトTシャツ、玄関先でババ抜きなど、胸が懐かしい気分になる絶妙なチョイス。



アメリカの超一般的なあるあるな田舎町をチョイスしたのも大衆の心をつかむエッセンスだったのだろう。アメリカにはああいう寂れた町がごまんとある。




この作品を機に監督はハリウッドに引き抜かれたようで、今後の作品にも期待が高まる。

今度はこんな曲がりに曲がったラブストーリーではなくこだわりぬいたヒューマンドラマを観てみたい。