1960年代後半、ブラジル・リオデジャネイロの貧民街“シティ・オブ・ゴッド”では銃による強盗や殺人が絶え間なく続いていた。そこでは3人のチンピラ少年が幅を利かせている。ギャングに憧れる幼い少年リトル・ダイスは彼らとともにモーテル襲撃に加わり、そこで初めての人殺しを経験すると、そのまま行方をくらました。一方、3人組の一人を兄に持つ少年ブスカペは事件現場で取材記者を目にしてカメラマンを夢見るようになる。70年代、名をリトル・ゼと改めた少年リトル・ダイスは、“リオ最強のワル”となって街に舞い戻ってきた…。
実話ベースのマフィア喜劇。
テーマは正直者は馬鹿をみるか?
腐敗と銃と大麻がのさばる神の街。そこでは悪に手を染める事でしか生き延びる術はなかった。真面目に生きようとすれば盗まれ、町全体が悪事に加担し密告もしない。暴力が起きても誰も何も見ていないという。自分の目の前で起きていてもだ。
貧困と暴力は硬く結び合い、いかなる国でもいかなる時代でも引き離す事は出来ない。真面目に生きることは美徳ではないのだ。
スラムドッグミリオネアなんかも同じような街並みが連なり彼らもまたドラッグを売って金を物にしていた。
しかし主人公のブスタペは銃は好まずカメラマンの道を目指す。かつて共にサッカーをした仲間は早々に悪に手を染め、地位と金を手にしていく。彼だけがいつまでも真面目でチェリーボーイだった。一度は悪事をしようと試みるが、ことごとく彼の周りには善がまとわりつき、悪事を働く事ができない。
まさにシンクロニシティ。こちらがトゲを出せば、相手もそれなりのやり方でくる。しかし善を出せば向こうもキチガイじゃない限り善で迎える 。
正しい生き方とは?正解はない。
幸福は人によって感じ方も感じるポイントも違う。金があふれれば満たされる人間もいる。食事をする、ゲームを買う、サッカーをする、誰かに手を差し伸べる、今日を生き延びる。JSミルは質的功利主義を掲げ「満足した豚よりも飢えた人間」が良いとした。一方でベンサムは量的功利主義を掲げこれを批判した。また幸福論でアランは「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」と説く。幸福の尺度とは環境、生き方で大きく変わるだろう。一概に誰しもを満たす物など存在しない。この腐敗と大麻に満ち溢れた神の町に幸福、あるいは明日は存在するのか?マリファナでガンギマリした偽りの幸福ではなく真の幸福はあるのだろうか。俺が今どんなに考えようがユビキタスを最大限活用して調べようがリオデジャネイロのスラムに幸福があるかは分からない。ブラジル人になってスラム生まれじゃないとそれはわからないだろう。
しかしただ一つ言えることは彼らは我々よりも間違いなく生きるために必死である。
日本じゃ公民館でDSやってるような頭でっかちのガキンチョと同い年くらいの子が銃で大人を撃ち殺す。それも毎日のように。絶望。この平和な国日本でそんなことがあれば絶望して自殺する奴が出てくるだろう。
子供が子供を殺したり残虐なのは勿論なのだか、全体を通して話が回想なのとテンポラリーに話が進みまた音楽もラテンリズムで青春映画のようなおかげで、そこまでナーバスになる映画では無い。
ラストシーンの悪は一生途絶えないことを表すカットが最初から今までをループしてて絶望的だが面白い。
この国がよくなるためには子供が変われば良いわけでも、大人が変われば良いわけでも、制度でも国でもない。もはや神の街では悪が根付き、これが生きる術。それは悪ではなく常識であり、おそれるべきは事実ということだ。
服がみんなスラムな感じでグッド。サッカーのユニフォームにウージーってのはマジで極悪に見えるね。下手に武装してるよりよっぽど怖いわ。
あとマックスペイン要素満載でロックスターは確実にこれ見てるだろうなと思いました。
今じゃあ装甲車に金持ちを乗せてスラム街をサファリパークみたいに巡るツアーがあるらしい。糞だな。
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