2016年8月15日月曜日

【映画】ハイライズ




原作はイギリス人作家J・B・バラードが1975年に書いた長編ディストピア小説。

原作を映画鑑賞後に読んだが、かなり忠実に映像化したと感じた。また同時にこの情報量をあの尺に収めるのはインヒアレントバイスと同じ無謀さがあると思料。

ハイライズ鑑賞中はカンヌだったらロストリバー並みにブーイングの嵐が巻き起こるであろう悪趣味さと、ドラッグをキメた時のトリップのような不可解な映像の連続終始狂ったようなテンションの高さを保った抑揚の無さで、油モノを詰め込みすぎた弁当を食ったような胃もたれを観終わってから存分に感じた。
どうやらそれは自分だけではなかったらしく、エンドロール後の劇場はため息と分析に困った評論家で溢れ、とあるトムヒドルストン目当てで来たであろう女性は「これは本を読めば分かるものなの?」と映画の難解さをこぼしていた。


大枠としてはとてもシンプル。
国家あるいはコミュニティのヒエラルキーを、1つの高層ビルに見立て、それを階級ピラミッドの文字通り所得や社会的地位の低い順に住まわせていく。
建築家(ビルの創造主)はこのビルを完璧でしがらみのない”るつぼ”にしたいと述べており、ビルには多くのタイプの人間と生活の為のあらゆる施設が揃っている。
しかしある停電をきっかけに、全体の秩序が乱れ始める。上の階は15分程度で復旧したものの、下の階はいつまで経っても停電のままだというのだ。
夜な夜なパーティで騒ぎ立てる上流階級は湯水のごとく金を使い、電気も水も好き放題だった。その仕打ちを下の階が受けるという流れに不満を持った住民たちは徐々にデモを起こし、上の階に反乱を起こす。

一方で上の人間達も格の差を見せつけるとか言ってインフラを断つことで仮装階級の生活基盤を奪い根絶やしにしようとする(経済制裁)。
争いはやがて上と下だけではなく男と女、持つもの持たざるものと形を変え、人の性を掻き毟る。エロもグロも一緒くたで、それはまるでイタリアのカルト映画『ソドムの市』とあまり相違ない。


主人公ラングラーはカオスになったビルに対して至極冷静で外野的だ。ジムがめちゃくちゃに荒らされようが、残ったマシーンでいつも通りのトレーニングをする。食べ物も無いようなカオスなスーパーマーケットでも目当てのペンキ缶を持って出て行く。人の波をかき分け仕事から戻り、また車に乗って仕事に行く。まるで押し殺し自分を偽るかのように。
彼は何故巻き込まれないのか?あるいはなぜ関わろうとしないのか。

彼の仕事は外科医であり教授だ。
彼の周りはあまりに彼のことを知る人間が少ない。家族、友人、恋人の描写はなく、(原作では妻と離婚したという箇所があるが作中では白黒の写真で未練を表しているのみ)、仲間外れの少年だけが唯一彼が心を開いている対象である。
人の頭の皮に指を突っ込んで頭蓋骨から引き離し、淡々と解剖について説明をする。彼自身の日常がすでに非現実的なものであり、大衆とは離れた場所にあった事がコミュニティに影響されなかった1つの理由だろう。

またJBバラードがこのハイライズを書いた時代、次々に高層ビルが出来ていったそうだ。それは人がお互いと干渉し合う時代から、関わらない事が最善というドライな時代に移行している事を察知したのかもしれない。
内装に感心するトムヒ


また彼は意識的に俗世から隔離していた
めちゃくちゃになったスーパーマーケットで食べ物を探すのかと思いきや、彼は一つのペンキ缶を手にし、暴徒を殴り倒してまで死守する。
そのペンキを部屋中に塗りたくり、自分にも塗りつけた上に隣人にどうだと披露する。
彼はビルの人間が暴徒になったりコミュニティを作っても、一定のリズムも保ち(仕事やジムのマシーン)、自分の色を持ち続けること(水色のペンキ)で周りに流されず自我を保った。

結果的にそれはあのビルで生き残る事ができる理由になる。
しかしそれは物事に対し一切干渉せず存在する事がビル(現代社会、ないしはこれからの社会)で生き残る術となる。
寂しくもそれは事実で、周りを見ればそれは間違いでは無いと分かる。この情報過多、モノにあふれた現世で、いちいち物事に流され扇動されていては正直キリがない。原作は70年代に執筆された作品であるが、ソイレントグリーン同様、見事に未来を見透かしていたと言えよう。


これまでトムヒドルストン無いしはイギリス俳優に興味は全くなかったが、トムヒドルストンの演技の幅に驚いた。激昂するかと思いきや踊り狂い、情動を逸した行動を読み取れぬ表情でこなす。アベンジャーズみたいなブロックバスター物も良いが、こういう世間に対するアンチテーゼの塊のような映画で光る俳優は本物と言えるかもしれない。

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