2012年10月25日木曜日

【映画】もしも昨日がえらべたら

はじめに言います。泣けます。
ネタバレしても泣けます。それも笑と感動を交互にいれてくるから罪な映画です。
心温めますか?なアダムサンドラー映画の中では一番泣けるかもしれない。101回目のプロポーズはいい映画だけどそこまで泣けないし。
仕事に家族に人生を生き急いでる不器用な男がある時謎の博士に万能リモコンを授かる。そのリモコンはなんと文字通りなんにでも使える。口うるさい妻の姉をミュートにすることも出来るし、一時停止して近所のガキを黙らせたり、なかなかウンチをしない飼い犬を早送りしたり…。すっかりリモコンの虜になった男は仕事をすぐ終えたいがために早送りしまくる。気づくと自分は老いはて、妻は出て行き、子供達は大きくなって出ていっていた。大切な時間をも早送りしてしまった男は、父の死に立ち会えなかったことを激しく後悔する。そして自分の死。ラストはハッピーエンドなのでご安心を。
ありがちな内容だようだけど、意外となかったシナリオで、意外と予想がつかない展開でのめり込んだ。アダムサンドラーじゃなきゃこの役は無理だったろうなー。ちなみに笑えるシーンも結構多くて本当にいい映画。
9点/10点中

2012年10月24日水曜日

【映画】テキサスチェーンソー



マイベストムービーです☆
澤選手の名言である。モンティパイソンばりのブラックジョークである。猿が猿の映画を薦めるとは。
そんなことはさておきこの映画は私の短い薄い生涯見た映画でも5本の指に入る。
死霊のはらわたのリメイクとして作られた今作は原本に負けず劣らずのおぞましさとクオリティでスプラッタファンからの支持も高い。
テキサスの田舎へ旅行へ行った大学生達がテキサスのど田舎に驚愕する。コンビニはないし石のようなばあさんが店先で固まっておる....
のではなく田舎にある独特な風習とか社会の目から避けられた者達の恐ろしい慣習などをリアルに描いた映画。タイトルからお分かりの通りチェーンソーが出てきます。説明は以上です。これで充分です。

正直なぜあれだけスプラッタムービーとホラームービーがある中これがダントツに好きなのかは自分でも分かりかねないが、多分それはチェーンソー男の人の皮を被っていてチェーンソーを振り回すという恐ろしいビジュアルと、舞台が煌びやかなニューヨークではなく娯楽といえば家畜をペッティングするかテレビのワイドショーを観るしかないようなアメリカに多く存在するど田舎である事が私の心をゆすぶるのだろう。
多分舞台が日本であっても相当怖いと思う。舞台が青森の田舎で仮面をつけた男が包丁を持って夜中に「わりーこはいねーがー」なんて言って押し入ってきたらと考えると…あれ?

一番の見所は最初のヒッチハイクした女の子が自殺した理由が一番最後にわかる事。この話は輪廻してるんだ…!とわかった瞬間この映画の虜になるであろう。
9点/10点中

2012年10月18日木曜日

【映画】マルホランドドライブ

デヴィッドリンチ監督の作品は理解しようとしても理解できないものが多々あるから、理解しようとしてはならないと言われる。芸術として見るか自己の解釈で判断させるという挑戦的な作品が多い中このマルホランドドライブは理解出来るサスペンスと言われる。と言ってもアベレージから見れば全く意味がわからないものなのだが。
舞台は映画と金と殺人が渦巻くハリウッド。主人公のベティは田舎町から女優になるためハリウッドにやってくる。大女優の叔母を持ち、その遺伝子を受け継いでいるのかオークションは大絶賛、出だしは好調だった。
時同じくしてリタはハイウェイの途中で殺されかけたところをなんとか逃げ、ベティと遭遇する。リタは頭を強く打っており、記憶を失っていた。リタの記憶を修復する手助けをするためベティは手を貸す。だんだんと謎が分かりかけてきてリタとベティは愛し合う。このままでいたい。そう願っていた。
ある夜訪れたクラブシレンシオ。そこで繰り広げられる演奏会はすべて録音であり、虚偽演奏である。そして支配人らしき男が一言、この物語はまやかしです、と。
ここまでが現実ではなく回想だとしたら?人々は混乱する。
通常映画というものは現実のストーリーを流し、キャラクターを理解させてから回想や過去のシーンを流す。しかしそれが逆だとしたら?
ここがマルホランドドライブを理解するある種の要で、これさえ分かれば"理解する事の出来ない芸術という名のついた意味のない無駄な時間"ではなくなる。もっともリンチ作品よりピーウィーの大冒険なんぞを観る方がよっぽど無駄な時間である。
前半の膨大なシナリオはすべてベティの妄想、理想世界であり、こうあって欲しい事が描かれている。カウボーイの死神に起こされてからの後のシナリオが認めたくない現実である。
例えば理想の部分ではリタは自分を頼らなければ生きていけず、自分のことだけを愛している設定だが、後半の現実の部分ではリタは映画監督と関係にあり、自分への愛はすでになく、婚約までしている。さらにはベティは役者ではモブキャラで、スターの道は無い。
妄想の部分は物が不完全である事から理解する事が出来る。例えばダイナーで自分の恐ろしい夢の話をする男が席を立つと机にはもはや何も置かれてなく、不自然である。
また自分の恐ろしい夢の話をする男が言っていた黒い恐ろしい何かとは、ベティの心にあるわだかまり、妬み恨み、心の悪の部分を凝縮した物体であるといえる。ちょうどダークナイトのジョーカーのポジションになると言おうとしたが残念ながら病院を爆破するようなことはしない。
初めて観たデヴィッドリンチ作品がラビットだったために完全に今作を観るのをためらっていた。だがこれだけとっつきやすい物だと分かれば全部観てしまおうと思い他の作品も観たが、イレイザーヘッドで度肝を抜かれた上にまたためらうこととなった。
マルホランドドライブで得た事といえば他の映画を観ても無理難解だと思うストーリーがなくなった事。よっぽど裏をかいた映画でなければ大抵は難なく観れる。ありがとうリンチ。

∞/10点中

2012年10月17日水曜日

【映画】ダークナイト

19世紀に生まれて以来多種多様な技術が生まれ、映画はもはや娯楽ではなく時代を象徴する遺物となった。その200年もの歴史において最高傑作ともいえる作品がこのダークナイトであるといえる。
莫大な資金と豪華なキャスト、設備、技術、シナリオ、ハンスジマー。笑
今後100年これほどの衝撃を生む映画はないと私は自負している。

もはやあらすじなど語ること自体が愚の骨頂であるといえるが、このブログのLAWであるためそれに従う。
前作ビギンズでバットマンの完全体となったバットマンはもはやその地位を揺るがすものはないほど強大なゴッサムの守護神となっていた。ゴッサムの秩序は保たれマフィアはグループセミナーを昼間から開きバットマンを恐れながら生きていた。人間というものはガチガチの規則に縛られれば縛られるほど反骨する生き物である。1980年代のイギリス強攻政治がいい例で縛り上げた結果ロンドンパンクが生まれた。その結果は私にとって良い結果となったわけだが。
ゴッサムシティも縛り上げた結果、諸悪すべてを凝縮しろ紙でこしたような悪の塊が生まれる。ヒースレジャー扮するジョーカーだ。

映画のテーマといえば、「正義と悪という分節は、恣意的なものに過ぎない」という徹底してシニカルな相対主義である。
ジョーカーは人間ではない。顔はなく過去の経歴もなく自分が語る過去のストーリーはでたらめで、あれは人間の形をした悪の塊である。もはやゴロツキのような威圧や金で収まる悪ではなくなり、町が燃え上がるのを見て喜ぶような悪が台頭するようになってしまった。追いつめられたバットマンは町中の携帯をハックしてジョーカーを見つけ出す。もはやどちらも悪でありきらびやかな正義など跡形もない。ゴッサムの希望と言われたハービーデントも最後は私怨に負けて復讐鬼と化す。
人はひと押しで悪へと落ちる。ジョーカーはそれを証明するため人間界に現れた混沌の使いであった。

10/10点中

2012年10月5日金曜日

【映画】ダークナイトライジング


映画公開までこれほど心待ちにした映画はスターウォーズ以来だと思う。クリストファーノーランによるバットマンシリーズの最終作。
混沌を擬人化したピエロを逮捕し正義が悪になった瞬間を見届けヒーローごっこを引退したコスプレ男が母のネックレスをネコババされブチ切れ、ムキムキになって極度の民主社会にする話ではない。これはアメリカの煌びやかな幻想リアリティをひっくり返し終焉を危惧した映画である。
すべてにおいて完璧といえば大ホラ吹きになるが、あまりに完成しすぎている部分がある。ただ部分がある、という話であり、それを差し引いたその他は完璧であるといえる。
興ざめするようなCG加工丸出しのようなシーンはなく映像技術においては最新鋭なのであろう。
バットのシーンや警官と暴徒の乱闘のシーンは実際に役者を使って撮っておりノーラン監督のリアリティを求めるハングリー精神に感服である。
大抵規模がでかくなると最近の映画はCGを使う。これをノーランは逃げだと感じたのだろう。
序盤ではハンディカムを使いリアリティのある映像を撮っていたのにもかかわらずラストの正体がCG丸出しのクローバーフィールドなんかが良い例で手を抜けば映画全体の質が下がるしCGに力を入れれば不自然な金のかかったB級映画のようになる。Battlefieldとかね。アバターみたいなもう開き直ってFF映画みたいにしてしまえば話は別だが、ダークナイトを撮る上で少しの欠陥もノーランは認めなかった頑固さがそこから伝わった。
今作のテーマは希望。希望と聞くと甘酸っぱい商業生産的ジャパニーズファッキンポップのリリックを思わせるクサさであるが、今作における希望とは光溢れるものではなく光溢れるものを下から眺める物を指す。空は見えるのに出ることの出来ない"奈落"、自由はあるが原子力爆弾を背負ったゴッサムシティ。ベインは人々に希望を与え殺す。前作のジョーカーが混沌、恐怖を与え殺すのに対し希望を与える方がより残酷であり非人道的だ。
日本の地方に伝わる伝承に犬神というものがある。犬を地面に埋め、首だけ出す。届かない距離に餌を起き見えるのに食えないもどかしさを味わせその後首を落とす。犬には強烈な恨み怨念が宿り村を一つ崩壊させるほどの邪悪なものとなる。
もちろんゴッサムシティの人間が怨念の塊となったわけではないが爆破した場合を想像しふと思い出した。
シリアスなシーンが多い中最高に笑えるのがあれだけ丁重に扱っていた原子力爆弾を緊急事態になったとたん振り回し容赦なく爆撃しおっこどした上に、中からゴードン警部補が小指でも打ったレベルの痛さで現れたことである。あれだけ対物ミサイルの砲弾を上から浴びて四回くらいの高さから落っこちて、「いてててて」レベルの痛さですむものならもはやゴードンが一番強いのかもしれない。犬に腕を噛まれて腫れ上がるどっかのコスプレ野郎とは大違いである。
それと全米で公開当初ベインが何を言ってるのかわからないという声が多く上がった。なぜあんなに聞こえづらいマスクを口に装着しながらロシア訛りの英語で話すのか。おまけにバットマンの病み上がりみたいな声も前作よりパワーアップしており二人の会話はもはや字幕をつけるべきである。どうせなら右下に手話のお姉さんも入れるべきである。
このように文句一つない映画である事は確かだが欲を言うとヒロインは垂れ目じゃなくつり目のブロンドを選ぶべきだぞノーラン。