2012年10月18日木曜日

【映画】マルホランドドライブ

デヴィッドリンチ監督の作品は理解しようとしても理解できないものが多々あるから、理解しようとしてはならないと言われる。芸術として見るか自己の解釈で判断させるという挑戦的な作品が多い中このマルホランドドライブは理解出来るサスペンスと言われる。と言ってもアベレージから見れば全く意味がわからないものなのだが。
舞台は映画と金と殺人が渦巻くハリウッド。主人公のベティは田舎町から女優になるためハリウッドにやってくる。大女優の叔母を持ち、その遺伝子を受け継いでいるのかオークションは大絶賛、出だしは好調だった。
時同じくしてリタはハイウェイの途中で殺されかけたところをなんとか逃げ、ベティと遭遇する。リタは頭を強く打っており、記憶を失っていた。リタの記憶を修復する手助けをするためベティは手を貸す。だんだんと謎が分かりかけてきてリタとベティは愛し合う。このままでいたい。そう願っていた。
ある夜訪れたクラブシレンシオ。そこで繰り広げられる演奏会はすべて録音であり、虚偽演奏である。そして支配人らしき男が一言、この物語はまやかしです、と。
ここまでが現実ではなく回想だとしたら?人々は混乱する。
通常映画というものは現実のストーリーを流し、キャラクターを理解させてから回想や過去のシーンを流す。しかしそれが逆だとしたら?
ここがマルホランドドライブを理解するある種の要で、これさえ分かれば"理解する事の出来ない芸術という名のついた意味のない無駄な時間"ではなくなる。もっともリンチ作品よりピーウィーの大冒険なんぞを観る方がよっぽど無駄な時間である。
前半の膨大なシナリオはすべてベティの妄想、理想世界であり、こうあって欲しい事が描かれている。カウボーイの死神に起こされてからの後のシナリオが認めたくない現実である。
例えば理想の部分ではリタは自分を頼らなければ生きていけず、自分のことだけを愛している設定だが、後半の現実の部分ではリタは映画監督と関係にあり、自分への愛はすでになく、婚約までしている。さらにはベティは役者ではモブキャラで、スターの道は無い。
妄想の部分は物が不完全である事から理解する事が出来る。例えばダイナーで自分の恐ろしい夢の話をする男が席を立つと机にはもはや何も置かれてなく、不自然である。
また自分の恐ろしい夢の話をする男が言っていた黒い恐ろしい何かとは、ベティの心にあるわだかまり、妬み恨み、心の悪の部分を凝縮した物体であるといえる。ちょうどダークナイトのジョーカーのポジションになると言おうとしたが残念ながら病院を爆破するようなことはしない。
初めて観たデヴィッドリンチ作品がラビットだったために完全に今作を観るのをためらっていた。だがこれだけとっつきやすい物だと分かれば全部観てしまおうと思い他の作品も観たが、イレイザーヘッドで度肝を抜かれた上にまたためらうこととなった。
マルホランドドライブで得た事といえば他の映画を観ても無理難解だと思うストーリーがなくなった事。よっぽど裏をかいた映画でなければ大抵は難なく観れる。ありがとうリンチ。

∞/10点中

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