公開当初多くの人がこの映画にテラビシアにかける橋的なファンタジー要素と何か幸せになれる不思議な映画だと思い込んで劇場に足を運んだことだろう。ところがパンドラの箱を開けてみれば中には戦争とメキシコ的生死表裏一体観、そしてグロテスクな描写がたんまりあることに思い知らされる。私自身ジャケットでこの映画の内容を大体こんなもんでしょ?と決めつけていた。
ギレルモデルトロ監督はそこまで甘くなかった。
米アカデミー撮影賞・美術賞・特殊メイキャップ賞、全米映画批評家協会賞の作品賞などさまざまなタイトルを獲得し各国で激賞された。ダークファンタジーと太鼓判を打っているがどう考えても戦争映画であるし、ネグレクトや幼児虐待といった現代社会の暗部にも通底するドス黒いメッセージ性をも含む。戦争としての面とファンタジーとしての面が同じ時系列で同時に進み、最終的に一つになるというストーリーの構造であるが、二つの住み分けがうまくなされており観ていて混同することなく楽しめる。
あらすじ
1944年のスペイン。内戦終結後もゲリラたちはフランコ将軍の圧政に反発していた。そのため、緑深い山奥でも血なまぐさい戦いが繰り広げられていた。おとぎ話が大好きな少女・オフェリア(イバナ・バケロ)は、臨月を迎えた母カルメン(アリアドナ・ヒル)と共に、その山奥にやってきた。駐屯地を指揮するフランコ軍のビダル大尉(セルジ・ロペス)と母が再婚したからだ。しかしビダル大尉は、ゲリラの疑いがあるというだけで農夫親子を惨殺するような残忍な男だった。ビダル大尉を恐れるオフェリア。一方、小間使いのメルセデス(マリベル・ベルドゥ)は実はゲリラ軍の協力者だった。大尉の元に潜り込んで、ゲリラ軍に情報を流していたのだ。そんなメルセデスと仲良くなるオフェリアだが、ある日、ひょんなきっかけから不思議な迷宮(ラビリンス)に迷い込んでしまう。そこには山羊の頭と体をしたパン(牧神)がいて、彼女に驚くべき事実を告げた。オフェリアは魔法の王国のプリンセス、モアナの生まれ変わりに違いないと言うのだ。そして満月の夜が来るまでに三つの試練に耐えられれば、両親の待つ魔法の王国に帰ることができると言う。その言葉を信じたオフェリアは三つの試練に立ち向かう決心をするのだった。こうして幻想の世界にのめり込んでいくオフェリアの周りでは、ついにゲリラ軍とフランコ軍の、血で血を洗うような戦いが始まる……。
スペイン内戦やフランコ独裁政権について知らないことにはこの映画を楽しむことはできない。
スペイン内戦とは1936年、マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った戦争。スペイン共和国政府に対して、軍事反乱を起こしたフランコ将軍はナチスドイツと手を結び、共和国政府を支持する共和派やレジスタンス派に対して、徹底的な弾圧を加え続けた、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。ナチスドイツがポーランドへ電撃侵攻を開始したのは1939年9月1日だが、その5年後の1944年6月には連合国軍がノルマンディー上陸作戦を開始したため、ナチスドイツの敗北はもはや明らかになっていた。ではその時、スペインの山の奥にこもってフランコ政権への抵抗を続けるゲリラ軍は?というバックグラウンド。
そういった血で血を洗う内戦のさなか、少女は自らの妄想により生み出した現実逃避によりむごい世界から目をそむけていたのだ。「だから少女は幻想の国で、永遠の幸せを探した」というこの映画のキャッチコピーはそれを物語る。
「パンズラビリンス」とは直訳すればパーンの迷宮となる。パーンとはギリシャ神話における農耕神ルベルスクであり、ファウヌスである。映画ではヤギのビジュアルのパーンがどう見ても悪役のような姿で現れる。家畜や森を守る神であり、劇中でも森の迷宮に生息する。パーンの迷宮と名付けられるぐらいなのだからおそらくギリシャ神話にリンクした映画なのだろう。主人公の少女は月の女神であると告げられ、その世界に戻るために三つの試練をこなす。そして自らの命を絶つことにより黄泉の国に行き、神になることからオフェリアはギリシャ神話における女神アルテミスではなかろうか。アルテミスは古くは山野の女神で野獣と深い関わり合いを持つ神であった。アテナイにはアルテミスの為に黄色い衣を着て踊る儀式があったとされるが、少女オフェリアが最後月の女神になった際に着ていたドレスは黄色でありこれはおそらく偶然ではないだろう。
女神は、森の神として、兄弟神アポローンとともに「遠矢射る」の称号をもち、疫病と死をもたらす恐ろしい神の側面も持っていた。また産褥の女に苦痛を免れる死を恵む神でもある。少女オフェリアの母は弟を生んだ際死んでいる。これもおそらく偶然ではないだろう。そして神話の中ではオレステースがイーピゲネイアと共にもたらしたアルテミスの神像は人身御供を要求する神であったとされる。アルテミスに対する人身御供の痕跡はギリシアの各地に残されていた。少女オフェリアは最後自らを犠牲として捧げることにより生贄になり、アルテミスになったのだ。
映画では冒頭にオフェリアの死とまたラストで同じシーンが流れる。しかしオフェリアの死で幕を閉じるのではなく煌びやかな黄泉の世界が映し出され終わる。これは肉体は朽ち果てても魂はよりよい世界へ行ったという一種の観客への慰め的演出であり、メキシコ人的な生と死は一体であるという観念を表した重要なシーンだ。しかし舞台を戦時下に置く必要はなかったと思う。確かに、残酷な世界に逃げる隙を与える対照的な世界は対比しやすくまた死と隣り合わせであるということ、死は終わりであり始まりであること、これらを分かりやすくするには戦時下がいいのかもしれない。しかし戦争というイメージが強くありすぎ、また事実であるが故ここの価値観が邪魔して支離滅裂な構成になってしまったと考える。
ストーリーの構成はおいておいてクリーチャーのデザインには毎度頭が下がる。ヘルボーイの死神はたまらないデザインであったが、今回も一度見たら数十年は忘れない強烈なインパクトのあるクリーチャーが出てくる。
↑ヘルボーイの面々
中でもペイルマンというキャラクターは誰がいつ見てもキモいという感想を満場一致で叩きだすツワモノ。試練の中に登場するのだが、手のひらに目が付いておりサルエルパンツみたいな皮膚でちんたら追いかけてくる。文体だけみてるとただのバカにしか思えないが映像で見るとホントにキモいしえげつない。妖精を頭から食う。パンズを知らずにこのクリーチャーを知っている人間も少なくない。ある意味デルトロ色全開ですばらしいけど、夜中に出てきたらずいずいズっころばしで眼つぶしするしかない。
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