2016年4月11日月曜日

【映画】ボーダーライン



一昨年、鉄パイプで殴られて目の前が真っ白になったような衝撃を受けたすさまじい作品があった。リドリースコットの悪の法則(原題:Counselor)だ。足を踏み入れてはいけない領域に軽い気持ちで土足で入り、骨の髄まで吸い尽くされるおぞましい話で、正直人生の10本にランクインするほどの衝撃を受けた。リドリースコットの作品といえば一貫して踏み入れてはならない領域に調子に乗ってずかずかと入り込んだ結果ひどい目に合うという作風が主となる。科学でほかの惑星に踏み込んで大変なことになるエイリアンシリーズや、兵力をもってしてアフガンに攻め入ってボコボコにされるブラックホークダウン、ほかにもブレードランナーグレイなど、いってしまえば苦労する話が多い笑
本作ボーダーラインの監督ドゥニビルヌーブ(名前が覚えられない)はブレードランナーの続編の監督に抜擢された、いわばリドリースコットの申し子なのだ。ブレードランナーといえば私の人生の一作でありあのカルチャーを十分滲ませてふやけさせたのが今の私であり、酸素の次に不可欠な作品である。
それを監督するというならば次の作品は厳しい視点でジャッジするし、さらに言うならばリドリースコットが悪の法則で確立した麻薬戦争作品というひそかなジャンルを踏襲しているもんだから期待値は高まるばかり。
もちろんプリズナーズで社会問題に対して核として存在する問題と恐怖を批判的ではなく至極客観的に描く作風については圧倒され済みだったので普通以上の面白さは得られるだろうという生半可な心持で劇場に赴いた。

いい意味でその期待は粉々に破られた。
いうならば、画面と目玉が金縛りにあったかのように釘づけにされた。
見終わってからどっと疲れが沸き上がったが興奮して映画に対して頭の中で言いたいことを言いまくった。あれはどうやって撮った?あいつは尋常じゃないキャラクターだった、あのシーンはなんのオマージュか?テーマこれだろうか?どういう意図であの構図にしたのか?
普段であれば鑑賞中にあれこれ考えるのだが、今回は見入りすぎて終わってからけたたましく振り返ることになってしまった。
帰り道は幾度となくシーンを思い返してしまうという初恋のような気分を味わった。

メキシコとアメリカ
アメリカは徐々に大麻の規制が外れごくわずかに医療目的で認可されていたものがだんだんと嗜好目的で許されるようになってきた。
その理由として
①大麻は自然物であり、中毒性も皆無に等しく、害をきたすものではないと研究からわかったため
②麻薬戦争の日を消すため

以上に点が主な理由としてある。

一点目については大麻が極悪ダメ、絶対と刷り込まれてきた我々日本人にとっては目から鱗な話だろうが、古くは日本でも大麻は普通に栽培されていた。それが第二次世界大戦後マッカーサーが来てから大麻は悪いもんだからやめときやと言われ規制された。
映画をよく見る人ならわかると思うが、大麻を吸うシーンはたびたび出てくる。ニューヨークではセントラルパークで昼間から吸ってても警察は特に何も言わないらしい。あのオバマも吸ってたと公言している。→リンク

二点目については興味がある人はご存知の通り、メキシコは麻薬戦争のさなかにある。メキシコは大麻を栽培してアメリカに流しその際のテリトリー争いなどで、5年間で約5万人の人が死んでいるという、もはや内戦レベルの問題になっている。

それを物語るかのように、全編を通してメキシコ人達は目の前の惨劇に逃げ惑うわけでもなく悲しむわけでもなく、まるで日常の一部かのようにすべてを諦めている。毎日何十人もの親族や知り合いが死に、人々は完全に疲弊しきっている様子が伺える。ポーランドのように内戦になってしまえば、難民や他国からの援助など法的な手段を取れるが、麻薬戦争というグレーゾーンな戦いだけに他国も派手にやれないことが難しい問題だろう。

一方のカルテルはといえば人が埋まった壁の前でスマブラやってたり(スマブラかどうかは不明)捜査が来るとわかって鍵の欠けた納屋に爆弾を仕掛けたりと殺戮を楽しんでいる。
悪の法則でもカルテルはワイヤーを巻き取って首を絞める不気味な機械ボリートを使ったり、この仕事ユーモアが大事だよ!といって死体を身内に送り付けたりする野蛮さ。この世界にはモラルなんてものはこれっぽっちも存在しない。

正義とは人にとって都合の良いものを表す。それは政府でも、宗教でも、アメリカンコミックでも語り継がれているので、もはや周知の事実だろう。正義の反対はまた違う正義と誰かのお父さんが語るように、完全な悪など存在しないはずなのだ。
アメリカ人が害悪ととらえる部分はメキシコ人にとっては日常であり、悪とは思っていない。むしろ生活の基盤を奪おうとわざわざ隣国から口を挟むアメリカこそがここでは悪なのだ。
アメリカという国は人の国の政治に口を挟む。イラク戦争ではオサマビンラディンを復讐として殺害した。本来の目的は油だったのだが。
今作でもFBIは国内での問題解決が目的とされているにも関わらず、メキシコのフアレスまで軍隊並みの装備でわざわざ行ってトラブルを起こして帰る。
正義という二面性だけでなく映画では様々な二つの側面とその境界線をクローズアップする。光と闇、アメリカとメキシコの国境、善と悪、男と女。考えさせられるのはいつなんどきも物事は一つの側面から見るだけでは全体図は見えないということ。両方の目を大きく開けることが重要なのだ。









最高のシーンの連続
もはや国内での問題解決にとどまらず戦争レベルの戦いが繰り広げられていると冒頭でも述べたが、ヘリコプターでメキシコの上空を飛ぶカットや、国境線を隊列をなして進む姿は、まるで地獄の黙示録ブラックホークダウンだ。

作中フアレスを「野獣の街」と紹介するように、BGMもまるで獣が喉を鳴らすような低音の地響きがシーンとリンクし緊張感を高める。
住宅街で起こっている事とは到底思えないすさまじい冒頭5分で一気にハイボルテージになり、文字通り最後の最後までピンと張られたピアノ線のように緊張感が続く。硬い椅子で見れば肩こり必至だろう。

プリズナーズでもこの監督は観客の想像力を利用しておぞましさのボルテージを上げる。
例えば人を殴るシーンを映してしまえば上限はそこまでだが、鎖を拳に巻き付けてにらむシーンでカットすれば観客の想像力によって上限はゆだねられる。監督は何も役者に血のりを塗りたくってアクションをさせなくても素材だけ用意しておけばいいのだ。

例えばカルテルトップ2を護送して拷問するシーンでは、ポリタンクを片手に過去に何らかのいざこざがあったことだけを知らされカットされる。その後男がどうなったかわからない。顔に布を乗せられて水を死ぬほどかけられるか、指を一本残らずつぶされるかは観客にゆだねられるのだ。ロジャーディーキンスが以前撮ったノーカントリーでも観客にゆだねられるシーンがあった。主人公の妻のもとへ殺し屋が来て話をして次のシーンでは殺し屋は靴の裏を見る。それだけで妻が殺されて血がついていないか確認しているということが分かる。

この映画で最も恐ろしいのは赤いTシャツに首までびっしりタトゥーの入ったカルテルではなく、モラルを失った人々でもなく、卵とコーヒーが好きな警官の父ちゃんでもなく、ラスボスを殺しても終わらない戦争の原因がそもそもアメリカにあるということだ。普通の映画だったら敵の大ボスを倒せば平和な人々の笑顔がスローで再生されてみんな笑顔でそのままエンドロール。しかし誰一人として喜んでおらず、サッカーグラウンドでは今日も変わらず銃声が響く。ラスボスを倒したところで何も解決せず、本当の脅威は物理的に抹消できるものではないのだ。
最後にタイトルが画面いっぱいに表示される。
そう、まだ何もおわっていないのだ。



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