2013年11月18日月曜日

【映画】悪の法則



至高の豪華アンサンブルキャストが、危ういまでにスキャンダルに、息をのむほどセクシュアルに観る者を挑発してやまない、魅惑の心理サスペンス...

このキャッチコピーをつけたやつの首にワイヤーをかけて問いたい。
お前この映画目開けて観てたか?と。


<ストーリー>
若くハンサムで有能な弁護士(カウンセラー)が、美しいフィアンセとの輝かしい未来のため、出来心から裏社会のビジネスに手を染める。一度だけの取引を最後に手を引くはずだった。しかし麻薬取引の運び屋が何者かによって殺されてしまう。偶然にも自分が弁護していた女の息子がその運び屋だったがために、カウンセラーは麻薬組織(カルテル)に疑いをかけられる。またカウンセラーだけでなく恋人、仲介人、出資者と周りを巻き込んでいき、破滅の一途をたどる。




ブラピとキャメロン、ペネロペにハビエル、ファスベンダー。監督に至ってはリドリー御大。脚本はおかっぱキラーのノーカントリーで日本でも有名になったコーマックマッカーシ-。
これだけでなんかすごそうな映画だなぁちょっと彼女と見てみよう♪くらいのノリだと確実に後悔する。実際カップルで観てる客が多かった。そんでもって”キャストは豪華なのに内容はつまらないです^_^”みたいなレビューをつける事になる。スチールとCMだけ観ると大衆映画感があるが、これはどう考えても大多数が観る映画ではない。てか魅惑の心理サスペンス...なんて甘っちょろいもんじゃない。道理というものをみぞおちにぶち込まれる血なまぐさい麻薬闘争が正しい。
まず第一にリドリースコットであるが故なのか、あらゆる説明や人物紹介が無く、非常に頭を使う。これはいったい誰なのか?今何が起きているのか?を判断する術は、会話とルックスと場所だけで、それがすべて理解できれば話が繋がる。この補完力がない人であれば確実に話はわからないので、この映画は退屈だという評価を下す。逆を言えば完全なまでに客観的に観れるし今のドラマのようななんでもセリフで話し出す三文芝居感がなく、残酷なまでに現実的で良かったのだが。悪の法則製作時に弟のトニースコットが飛び降り自殺をして死んでおり、それも少なからず撮影に影響しているのではないかと(展開の雑さとか)。

第二に、謳い文句としてある本物の悪は誰だ?みたいなのはわりと序盤で分かる。というよりは頑張ればCMでわかる。しかし最終地点はそこではない。おそらく対して興味がない関係者がつけたフレーズなんだろうが、この映画においての終着地は、強欲から人間は解放されるかーあるいは自然界の法則を乱すとどうなるか、ということにある。結論は観れば分かるが現実は時に残酷だ。豪華出演陣だからといって安心してステキなラストが見れるとは限らない。

以上を踏まえてもつまらないという場合、それはストーリーがメインの見方をしてる映画好きな人だ。確かに悪の法則はストーリー自体は単調で、斬新でもないし、どんでん返しもない。ちょっと欲張りさんが慣れないことをして周りを巻き込んで、落ちるとこまで落ちるだけなので、つまらないと感じるかもしれない。自分はストーリー全体と言うよりはポイントポイントで感銘を受ければいいし、隙間はああではないこうではないと自分なりに考えてみるのが好きなので、この映画には大きな拍手と菓子折りとユリでも送りたい気分だ。




悪の法則では作品内に説明がなく話を理解するのが難解なため、ポイントごとに自分なりの解釈を。

テーマとしてあるのはなにか。おそらく欲望だろう。ダイヤを買い華やかな新婚生活。そのためにいるちょっとした金。あるいは自宅でパーティをし、昼間から酒を飲み、クラブを作って金を稼いでやろうという欲。あらゆる欲が交差しその末路が描かれるわけだが、結果として一番強欲なのはマルキナだろう。カルテルの麻薬トラックを横取りしようとするも失敗し、仕方がないからブラピがどっかの国に投資していた金を横取りして銀行家にダイヤに交換して香港に逃げると相談する。じゃあなぜマルキナが殺されないのかと言えば、誰よりも頭がよく先が読める人間であり、先を動かすことができる人間、そして何より罪の意識がない性格だったからだ。ブロンドの女を使ってブラピの情報を入手し謝礼を渡すがブロンド女はブラピの末路を聞いて罪を感じ金を受け取らない。これがノーマルの人間の行動であるが、マルキナはそれが理解できない。こういった罪の意識がないのはカルテルと同じで、作業的かつ欲望でこなすだけで躊躇がない。だからこそマルキナは死ななかった。最後顔なじみの銀行家に対してチーターの話をして「私は飢えているのよ」と言い物語は幕を閉じる。マルキナの欲望はこんなものではなく次の獲物をもう狙っているという意味と取れる。


カウンセラーが話をしていたキンキラキンのスペイン語訛りのおじさんは誰なのか。あれはメキシコのカウンセラーで、手数料はいらない同業者だからなという会話から弁護士であることが理解できる。何をしてもらったのかと言えば、彼はカルテルと話が通る人物であり、ペネロペが助かるように交渉してもらえないか頼んでもらっていたのだ。カルテルと通じてるからか家の中はいやらしいキンキラキンの家具ばかり。結果として後日電話がかかってくるのだが、その答えはいいものではなかった。だからこそ人生観や哲学、道徳の類を説教をして物事の摂理や人の歩いてきた道(人生)は変えることはできないということを長々と語る。んで昼寝するからといって電話を切る。そこで話はついたはずだがメキシコ人はジョークが好きということでスナッフビデオを送られる。
あるいはメキシコのカルテルの親玉という見解。主人公に諦めろと示唆する当たりや身なり、他にも電話をかけなければならないというセリフ(おそらく他にも脅しをかけたり殺しの報告をするという示唆)から相当の地位の裏社会の人間と見てとれる。しかし親玉がそうフランクに主人公と話をするのかというのが難点。あくまでカルテルは話の通じない不気味な存在で貫き通しているからだ。


映画におけるダイヤの位置づけについて。フランスの宝石商人が言うダイヤは不滅であるがゆえに人間の命のはかなさや定命を感じることができる。またそれは警告の石でもある。またどの石にも小さな欠点がありそれが個性であると。これは女のことを指すのだろうか。プールサイドで寝そべるマルキナとローラの会話で、そのダイヤいくらか知ってるの?という質問。それに対して知りたくないと。教会も行き、告白もし、おそらくローラは完璧な人間であるとマルキナは感じる。しかし同時にそれが信じられないマルキナはダイヤの観点からして、ローラは面白みのない人間だと感じているのではないだろうか。(その後マルキナは初めて教会に行くがアブノーマル過ぎて神父に見放される)


ドラム缶の死体を見たがっていたスキンヘッドのおじさんは誰か。おそらくあれはシカゴの買い手。メキシコ人が手際よく作業するのを見学していたのだろう。そしてメキシコ人が死体を使ったジョークが面白いと思っているということを我々も知ることになる。正直これを理解するには背景が必要で、実際フアレスで今泥沼化している麻薬戦争でもこのような光景は多く見られる。生首を並べておねんね中と書いたり、死体に包丁を隙間なく大量に刺したり、極悪非道なんてもんじゃない。カルテルで検索すると見れるがお勧めはしない。日本の平和さを実感したいのであれば是非。
ちなみにあのハゲおじさんはスティーブンキング原作の今流行中のドラマアンダーザドームにも出てくる。話していたメキシコ人はランドオブザデッドやプラネットテラーにも出ているメキシコ人。メキシコ人と言ったらこの人というイメージがある。


では、最後に送られてくるDVDが意味するものは何だったのか。正直書くまでもないが、劇場を出た後、あれはお前の居場所はわかってるぞっていう意味だよとかドヤ顔で語ってる彼氏さんがいたのでこれを見てくれることを願う。
概要としては最後にカルテルから逃げ疲れ安宿に隠れているファスベンダーの家になぜか一枚のDVDが届く。
そこには粗末な焼き増し用DVDRにhola!(やあ!)と書いてあるだけ。それを見たファスベンダーは泣崩れ、すべてを諦めるような表情をする。そしてゴミ処理場のカットに切り替わる。
前半でブラピが取引がまずいことになったのを説明する場面で語ったもういいよってくらい詳しいスナッフビデオの話、どう考えてもそれだろう。ペネロペはコロンビアンカルテルに捕まり、ぶっ殺されて弄ばれ、その様子は撮影された。バッキーも真っ青である(調べないように)。そしてゴミ処理場でゴミ当然に扱われる。いまだかつてバニラスカイを見た人間がペネロペがゴミ扱いされるなんて思ったろうか。家に届いたのはそれを記録したDVDであり、妻ペネロペの死とはファスベンダーの死よりも重いため(弁護士との会話からそう判断出来る)ファスベンダーは泣き崩れたのだ。
DVDを再生させず想像させて恐怖を煽るところにリドリースコットの技を垣間見れる。ちなみにこの泣きの演技はなかなかなので一見の価値あり。




良かった点。

話の難解さが目立ってあまり論争に上がってこないが、衣装や車、内装あらゆるオブジェクトが完璧で、こだわりを感じられたし、中途半端じゃないなと感じた。手を一切抜いてない。それはコロンビアンカルテルのタトゥーや袖なしシャツにバットに始まり、ファスベンダーのオレンジジュース、ラップトップ、アルマーニのサングラス。ディアスの鋲付きフーディ、サグい指輪、グラジュアルなクラッチバックなど目を引くものばかり。オブジェクトに関してもプロポーズのシーンでレストランにあった前衛的な置物、ハビエルの家にあるアメリカ国旗、チーターのハンティングの時のファッションや革張りのチェアなど、妥協を一切感じられない。しびれるアイテムだらけだ。
しびれるのはオブジェクトだけでなく血なまぐさい道具にも。ノーカントリーと言えば水素ボンベで風穴をあける武器とサプレッサー付きのショットガンが強烈なインパクトとしてあるが、今回も自動巻き取りワイヤーというおぞましい道具が。しかも餌食になるのはあの人。キリキリと不気味な音を立て死の恐怖を刻一刻と迫る緊迫感を中世の拷問道具がごとく残忍に描いている。あとは道路にピンと張られたワイヤー。バレーコートのネットにダッシュで突っ込んだことがある人は分かると思うが派手なコケ方をする。それと同じ原理で時速320キロで突っ込んだらお分かりの通りアンパンマンは新しい顔を装着することはない。ワイヤー装置を淡々と準備するシーンはかなりしっかり撮られていて、悪趣味な犯罪者予備軍リドリースコットが映画監督の道に進んでくれて安心した。


結果として本当の悪(マルキナではない大元のほう)がどんな人間だったのか、あるいはどんな組織だったのかは最後まで明らかにならない。それゆえにとてつもなく得体の知れないメキシコを覆う暑苦しい蜃気楼のようなモヤモヤした不気味なイメージがこびりついた。ノーカントリーでもそうだったが、南部にはなにか得体の知れない不気味なオーラがある。何を考えてるのかもわからないし、何を話しているのかもわからないし(それゆえか字幕も出ない)、治安も悪くそもそも死生観が根本的に違う。淡々と作業的に人を殺しその後始末をして金を得る。幸い、本作中ではメキシコ人の"作業中"は愉快なラテンビートがBGMとして流れてくれるおかげで陰鬱なイメージはない。どこかよその国の物騒な話を見ているというような完全な客観的立場になれる。主人公が名前がないあたりもおそらく感情移入するような話ではなく、離れからよそで起きてるひと悶着を覗いて見てみよう程度の理解でいいのだろう。だがアメリカという確立されていて金があれば安心が買える国も一寸先には得体の知れない闇が迫っているというWASP(クリーンな白人)的警告としてもとれるのかもしれない。


エンドロールが流れた時、これで終わり?と誰もが思っただろうし、とんでもねえ映画だな!とも思ったが、劇場を出ていつもの現実に戻り、あぁこの平和で素晴らしき世界に生きていて良かったと痛切に感じ、我々はリドリースコットの腕を再確認するのだ。
(おそらくリドリースコットにそんな魂胆はないだろうが)

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