2013年2月1日金曜日

【映画】レ・ミゼラブル

物語の根底にあるのは絶対的な愛であり、それは隣人愛と言ったキリスト教をベースにした愛であり、この作品はある種のキリスト教賛歌といえる。


舞台は1810年フランス、ジャンバルジャンはパン一つ盗んだ罪で19年の刑を負っていた。間違いなくそれは理不尽なものであり、それに屈するしかない不条理さを"下を向け!(LOOK DOWN)上には神はいない、下は地獄、20年間生き地獄だ"という歌詞が物語っている。この時、絶対神の如く鎮座しているのがジャベール警部であり、彼は罪人を下劣な物として造船所の上から見下していた。しかし彼もまた罪人の子であり、その不条理さを認めたくない思いから罪人を決して許さず、また自身を正義であると豪語している。それはジャンを逃がし必ず捕まえる事を決意した屋上の台詞でも分かる。自身を規則正しく煌めく星に例え、善悪二元論に固執していた。それが結果として彼を滅ぼす。

話は戻る。ジャンは仮釈放されたが再び出所しなければ牢獄戻りだった。罪人のレッテルを貼られながら職を探すも、見下され罪人扱いされ、飲み食いも出来ず憎悪と悲しみに暮れたジャンは教会の前で野宿するのだった。そこへ神父が訪れ、彼に暖かい食べ物と寝床を無償で提供した。彼はその言葉に甘えるだけでなく、自らの短所である手癖の悪さから銀食器を盗み家を後にする。
次の日の朝、憲兵に捕まったジャンが神父の元へ連れられた。憲兵は罰を求めたが、むしろ神父は差し上げたと嘘をつくだけでなく、神父が大切にしていた銀の燭台をも与えるのであった。これがかの有名な銀の燭台の例えであり、間違いなくキリスト教の精神である隣人を愛せ、与えなさいそうすれば救われる精神にのっとっている。これにより自身を猛烈に恥じ、感銘を受けたジャンは神に対して生まれ変わる事を誓う。司祭から受け取った「銀の燭台」は後のシーンでも出てきておりジャンの生まれ変わった証拠であった。


それからしばらくしてジャンは自身に鞭打って人々を救い、工場のマネージャーになるだけでなく市長になっていた。そこで働く女性達は皆卑しく、シングルマザーのファンティーヌの美しさに嫉妬し有る事無い事捏造して隠し子がいることを工場長に告げ口をした。彼女はクビになり、絶望的な飢餓時代を迎えているフランスの不毛の路地へと投げ出されてしまう。当然稼ぐ口はなく、なければ娘を救うためにいかなる事をもするのが母である。悲しくも彼女は美しい髪を売り(10フラン=約2万)、その身体すら売ってしまう。この時ドン底に落ち、かつての幸せの頃、そして夢を打ち砕かれたことを身を絞る思いで歌った"I dream a dream"は名曲だ。思わず感情移入して私は涙した。やがて彼女は病気になってしまい偶然通りかかったジャンに病院に連れていかれるが、もはや彼女の身体はボロボロで長くはなかった。ファンティーヌはその細く痩せ細った身体から力を込めて一人娘コゼットへの愛を歌いジャンに娘を託す。コゼットは宿屋の夫婦の元へ預けられており、まるで灰かぶりの少女のような虐げられた生活をしていた。宿はお節介なくらい面倒見のいい宿で、手癖の悪い夫婦達が来客の荷物を盗んで生活していた。鮮やかなスリスキルでメガネを取り帽子を取りカバンをとり、、、トイレの下を突き破って「『ウン』の尽き」ってセリフは笑えた。戸田奈津子ではありえんだろう。ジャンは相変わらず魔女みたいなヘレナボナムカーターと主人に大金を払って、今だ懲りずに追跡を続けるジャベールから逃れる為にパリへと足を運ぶ。


8年後、パリは飢饉と大きな格差により貧民は苦しみ、富豪は裕福な暮らしを堪能していたが、民衆の怒りは頂点に達し革命を起こすつもりでいた。馬車に乗る貴族に対して序盤で歌っていた”下を向けLook Down!”を別の意味で歌っていたのが面白い。ABCの友のメンバーであるマリウスは自らの家柄は裕福でありながらも祖父の王政復古賛成派のやり方に不満を持ち革命を決めた若き青年であり、彼もその友の大学生たちもその若さで革命に燃えていた。ある時マリウスはコゼットと偶然出会い一目惚れする。一方のコゼットも同じ感情を抱き、マリウスは革命と愛のオルタナティブに悩んだ。
また密かにマリウスを愛する宿屋の娘エポニーヌはマリウスがこの気持ちに気づかずコゼットに夢中になっている姿をはたから見て心からは喜べないでいた。そして名曲ON MY OWNを雨の中歌い、彼女はマリウスに向けられた銃を自分に向け身代わりとなる。ご丁寧に後ろの壁には”MORT”と書かれトムフーパー監督の過保護っプリが炸裂する。ちなみにマリウスが眠りにつきジャンが祈るシーンでもバックには大きな目が描かれており神の目は二人の安全を見守るととれる。

ジャベールは市民のふりをしてモグラとして潜伏していたがばれてしまい拘束された。そこへジャンが来て自分に手を下させてくれと頼み、彼はジャベールを開放する。ジャベールは取引のつもりだろうが私は追い続けると屈しない強気な姿勢を固持しているが、ジャンは「君は何もわかっていない。俺は悪党じゃない。君は自由だ。恨みはない。君は職務を果たしただけだ」という言葉を投げかけ空砲を放つ。この言葉によりジャベールの中で何かが動く。

六月蜂起が始まり、若者たちは戦う。しかし市民は誰も加戦せず結局はみな命が惜しかったのだ。本当に体制を変えようという若者、また子供までが政府の鉄の塊によって無残に打ち破られてしまう。ジャンは過保護であるため愛娘のためにマリウスを抱きかかえ下水から逃げ延びる。しかし下水を抜けた先にはジャベール警部が立っていた。しかし彼はジャンに対して引き金を引くことができなかった。捕まえるチャンスは何度もあったし殺すこともできた。そしてようやく殺せるはずであったのにここで殺すことは正義なのか?自分は法の具現化であり自身こそが法
であるはずなのにその結論は正しいとはいえなかった。彼は歌う。
正しいのはどちらか一人だ。固い信念が揺らいでいる。
やつは俺を殺した。
落ちていく星・・・おれには絶望だけだ。
ジャン・バルジャンの世界から逃れたい・・・
彼は最後の最後まで二元論という中間のない地獄によって自らを縛り上げた。そして今まで星のごとく見下していた冒頭の造船場から投身自殺する。その水面には星が反射する。ジャベールは星になったんだナ。

すべてが終わりマリウスとコゼットは結婚することとなる。父親最大の悩み娘の略奪。避けては通れぬ道でありジャンは過去をマリウスに話し、修道院へと身を隠す。そしてそこで誰にも知られず死にゆくことが務めだと思い込む。しかし結婚式の際、下水でマリウスを助けたのはジャンだということを知ったマリウスはコゼットとともにジャンの元へ行く。愛する者に囲まれ、自分を追う者もなく、務めを果たしたジャンはファンテーヌとともに希望の明日が来る世界へと帰依する。

ジャンバルジャンのストーリーを通しての務めとは愛を与えるということである。愛すということは許すということでもある。隣人を愛す。汝の敵を愛す。与えなさいそうすれば救われる,,,冒頭で神父がすべてを与えたことがすべての答えであり、愛をフランスじゅうにまき散らすのがジャンの使命であった。許すということは難しい。人は欲にまみれている。粘液のようにまとわりつき岩のように固い。自分が救われることを第一に考えてしまう生き物だ。しかしそれは我々の原罪であり、生まれつきの性なのだ。新約にパンと魚という例えがある。イエスと弟子は少しのパンと魚を持っていた。村には飢え苦しむ人が沢山いて彼らのためにそれを分け与えた。パンは何個にも増え魚はあふれんばかりとなった。イエスは別に超能力を使ったわけでもデリバリーを頼んだわけでもない。村人が助け合い自分のパンや魚を提供しあったのだ。見返りを求めるのではない。友を愛すということをしただけなのだ。


ジャンが仏教の悪人正機と重なった。根底にあるものは同じであろう。しかし私はジャベール警部が主人公であると感じた。もっとも人間らしく我々に近い。しかしながら十戒に反する自害をしてしまったがために黄泉の国にジャベールの姿はなかった。気付かないところであるがキリスト教の排他的な不条理な部分が見え隠れする。信じない者は救われない。十戒に反するものは救われない。宣教師がかつて日本に来た際、キリスト教はあまり広まらなかった。なぜなら日本人は先祖を大切にする民族であり、今までキリストを知らず死んでいった先祖たちはみな地獄行きなのかという問いかけを誰もがしたからだそうだ。パラドックスはいかなるものにも存在するが、私はペイガンを信じる。


全体を通して笑いあり涙ありアクションもあるし教養もある。CGも最新鋭のものであるし間違いなくアカデミーものである。逆を言えばそれだけのことである。
アカデミー賞とは大変なものである。今までの俳優生活や数々の苦労が認められたトロフィーである。しかしこれはノーカントリーと比べればなんてことはない。美術の授業で誰からもうまいといわれ先生にも評価され学内広報にも載った。しかし私はまったく面白くなかった。トムフーパーはこれでよかったのか?今まで宇宙人とかチェーンソー男とかB級を撮ってた監督がそれこそ神に生まれ変わることを誓ったのか英国王のスピーチとか模範解答を作り出した。どこか腑に落ちない部分がある。

 


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