1958年、小さな街で暮らすデイヴィッド(ダニエル・マンチ)の隣家に、ニューヨークから姉妹が越して来る。二人は家庭の事情で叔母(ブランチ・ベイカー)の所に預けられており、デイヴィッドはすぐに姉のメグ(ブライス・オーファース)と打ち解ける。だが、次第に彼はメグが叔母とその息子たちに虐待されていると気付き始め....
まさにこれこそヒストリーオブバイオレンスというタイトルをつけるべきだと思うが、憎くもない普通の女の子をこうまでして虐待するか??集団心理とか心の奥底にあるバイオレンスの芽は摘まないと悪の華になる。
まず母ちゃんガキにビールあげすぎ。50年代のアメリカは成人が13歳くらいなのか?
あと子供がコンフェッションとかいうか?子供が娼婦だと分かるようにキズをつけてやりたいとかいうか?ジョンゲイシーもびっくりのシリアルキラー候補生だわ。と思いながらも大人のエゴでキッズがやらされてるのを考えるとまあ言うかって感じで
犯罪は人数が増えればばれる可能性もどんどん上がる。しかも子供が相手となれば長くは続かないだろう。しかしまさかのシリアルキラー候補生だらけで(全部で八人くらいのガキ)全くばれない。恐ろしい世の中よ。君は目の前で女のあそこが焼かれるのを見て平然としていられるか?まさにここは地獄の黙示録なのだ。
映画というものは起承転結で構成されなければならない。そこに感動であったり恐怖であったり様々なエッセンスを組み込んで、観終わった後に映画はいい物だと感じるのが醍醐味だ。
私が大好きなテキサスチェーンソーはまさにこの流れを完全に網羅している。テキサス郊外の田舎で馬鹿な大学生が身の毛もよだつような恐ろしいコミュニティに紛れ込み、一人一人なぶり殺される緊迫感と、レザーフェイスがミスって自分の足切っちゃうみたいなギャグと、なんとか脱出してもまた初っ端にループするといったようなお先真っ暗エンディングなど、映画として完成しすぎている。
しかしこの映画には具体的な筋も明確な恨みもストーリーもなくただ胸糞が悪いだけで終了する。グロが好きな人はソウを好むが、理解できないと思っていたがソウのがまだ面白い。辛いものが好きな人は七味を単体で飲んだりしない。ソウは一応ジグソウが生きることの大切さを歪みきった形で教える道徳映画なのでぺパロニソーセージくらいの辛いちゃんとした料理になってる。しかしガールネクストドアは七味でしかない。
主人公の唯一正常な脳を持った少年が最後全員のこめかみに8ゲージショットガンを浴びせて=完=みたいなテロップが出るデスプルーフ的な爽快感あふれるエンディングならまだ救いようがあった。
私の子供嫌いをますます助長するような
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