2013年6月2日日曜日

【雑記】ゾンビ考察







ゾンビ映画は古くから社会批判の術として使われてきた。その立役者はもちろん我らがジョージロメロであるし、それ以降フォロワーが生み出すゾンビ映画はもはや単なる娯楽産業ではなくなってきている。
ゾンビ映画の軸で主流なのは、「ほんとうに醜いのはゾンビじゃなくて人間」とか、「ゾンビ映画を隠れ蓑に消費文明を云々」とか。どっちも言いたいことは良くわかるし、実際その通りだと思うが正直わかったようなわからんような話だ。
先ず「ゾンビ天誅説」というのは~オブザデッドシリーズで何度もロメロが強調している。神罰だとか煉獄だとか。悪辣で淫奔で、背徳にまみれた現代社会へ向けて射られたインドラの矢。大挙して肉迫するリビング・デッドたちからの遁走が映し出すのは、悪意の連関の中で安寧を貪るテレビの前の我々の姿なのか。傍観とは悪。
確かに地下シェルターで狂気の実験を繰り返すリチャード・リバティはもはや人非人でリビング・デッドよりも劣る者とも言えるかもしれないし、バブはローズ大尉(ランドオブ参照)を退治してくれるし、何だかリビング・デッドはむしろ良い奴らなのかもしれない。ランドオブザデッドのビッグ・ダディは同朋が屠蓄のように虐殺されるのを見て慟哭するのである。更に実際、リビング・デッドは自ら望んでリビング・デッドになったわけではない。篭城戦の渦中の生存者たちは他方で、いがみ合いや憎しみ合いを果てなく繰り返す因循姑息な原罪を背負うひとびとであり、疑心暗鬼に苛まれ続けている不信のひとびとでもある。リビング・デッドはそんなものとは無縁である。
ではリビング・デッドは善か?リビング・デッドの罪業は宥恕されるのか?
質問を変えよう。じゃあ、お前はリビング・デッドになりたいのか?


我々はリビングデッドという非現実的存在を介して我々の悪事を認識しゾンビを善良な物とする。しかし当事者になる事は望んでいない。なぜか?
次に、Dawn of the Deadに於ける消費文明批判について。
確かに、ラストのトムサヴィーニの野伏軍団(笑)との肉弾戦では過剰に資本主義、大量生産型工業社会がカリカチュアライズされている。それはまるでウォールマートの大量生産と安価で物を大量に流す90年代のアメリカを彷彿とさせる。物質飽和と拝金主義に駆動されたレッセフェールへの痛烈な風刺ともとれる。これがこの映画を単なるホラー映画、グラインド・ハウス映画に貶めることなくむしろ映画史の上位部へと昇華させる主因となっている。このシークェンス(ラスト20分)はまさに「七人の侍」なのだ。共有地を巡る略取と抵抗、侵略と失地回復の物語だ。
七人の侍を観た人なら知ってるだろうが三船敏郎演じる主人公は身を呈して農地を守る。それは日本だけでなくあらゆるフィールドでの永遠の課題でもある。
Land of the Deadにおいては、それが更に強調されているように思われる。リビング・デッドの繁茂に際して生き残ったわずかな人々が生きるコミュニティにはブルジョワとスラムのヒエラルキーが厳然と存在し、人類の未曾有の惨禍を経ても尚、上意下達の労使ヒエラルキーはその醜態を晒しているのだ(作中、デニスホッパー演ずるパワー・エリートたちの住まうのが高層ビルで、これはワールド・トレード・センター・ビルディングを暗示しているという説もある)。紛れもなくこれはブッシュ政権下のイラク進行、それも大量破壊兵器があると歌い、事実それは骨折り損であり、クリントン政権下の財産を空にし国内の格差を生み、負の遺産を生んだ暗黒の時代を示唆している。
ゾンビ文化は消費文明と下位文化の間に産まれた、資本主義の妾腹の子だ。
我々が生きている日常、この日常は煉獄だ。煩悩に支配された堕落者たちがのたうちまわり、コーン油とコーンスターチで出来た安価なファストフードで肥え太り、純粋な求道者たちは対して彼らの犠牲となり、死んで行く。そんな世界をリビング・デッドはデモン・クリーンしてくれた。悪い奴らは喰われ、彼らが拝謁していた通貨というものは意味を成さなくなった。世界はキレイになった。しかしお前らが望んだキレイな世界の中で蠢いている、この醜いリビング・デッドたちがローズ大尉の身体を裂いてハラワタを貪り食うのを、テレビの前でにやにやと嗜んでいるお前たち、消費者はリビング・デッドの名が冠してあるソフトを欲しがり、持て囃し、消費している。本当に醜いのはリビング・デッドでも、彼らに喰われたローズ大尉でもなく、ほんとうに醜いのは、テレビの前のお前だ。傍観し非現実だと思っているデッドシティは消費者の身の回りで今も起きている惨劇なのだ。


ザックスナイダーのDawn of the Deadは傑作だと思った。ロメロのDawn of the Deadの現代的解釈として、これ以上ないもっとも優良なモデルケースだと思った。もっとも秀逸だったのは、ショッピング・モールの屋上でチェスを指しながら、向かいの住宅の生存者と筆談で談笑しながら、芸能人に似たリビング・デッドを次々とライフルで射殺していくブラック・ユーモア溢れるシーンだ。
ロメロのDead三部作を溺愛し、未知の続編・後日談・エピゴーネンを脳内で大量生産しながら過ごしてきたゾンビホリックたちの創意の範疇の中に、こういったやり取りもきっと含まれていたのではないか?
このシーンでチェスを指し、談笑しながら、リビング・デッドの脳漿を吹き飛ばしているのは、他ならぬゾンビホリックたちなのだ。Dead三部作と星の数ほどの亜流ゾンビ映画を消費し、その中で繰り広げられるカタストロフィーを消費してきたゾンビホリックたちなのだ。
アメリカの歴史を紐解けば分かりやすい。イギリスの清教徒は英国政権による弾圧迫害を恐れて船ではるばる新天地を目指す。アメリカを見つけた清教徒達は上陸するが野蛮人インディアンを恐れて皆殺しにする。実際野蛮人でもなんでもないのだが。そしてアメリカを開拓していくわけだが今度は身内を疑いだし魔女狩りを行う。結果として疫病が大流行し人口は激減する。また働くのが嫌な彼らはアフリカから黒人を連れてきて奴隷としてタダで働かせる。綿産業が奴隷で成り立ってたのはあまりにも有名だ。最近だとタランティーノのジャンゴが奴隷制度を理解しやすい。奴隷制によりアメリカは経済大国となる。
しかしその後黒人は爆発的に増え、白人は黒人による反乱を恐れ南北戦争勃発。結果的に奴隷は解放されたが疑い深い白人はKKKを組織。そして結果的にそれはNRAになるわけだが。
それ以来黒人への差別は一層深まりマーティンルーサーキングなどが現れると白人は自分たちの身が危ないと思い込み始め銃が大量に売れる。家には大量に鍵をかけ自衛だと言って銃をだれしもが買えるようになる。結果それはコロンバインのあの悲惨な事件やアーミッシュを襲う無残な事件へとつながっていくのだが。
歴史で分かるようにアメリカ人は恐怖で組織されてきた。それはインディアンに始まり、現代においても恐怖でモノを大量に買わせる手法で一部の人間が大儲けしている。例えばコロンバインの事件以降銃は大量に売れた。自衛意識が高まったからだ。あるいは身近な例でいくとニキビがあると好きなあの子も逃げていくといった謳い文句で設ける製薬会社などあらゆるメディアは恐怖を使って国民の感情を煽る。そういったアホで馬鹿で偏ったアメリカ人の考えをディスるべくして生まれたのがサウスパークでありシンプソンズでありゾンビ映画なのだ。


Night of the living deadでは社会に潜むいまだ残る黒人=奴隷=モノ意識を痛切に批判した。Dawn of the deadでは冷戦以降大量生産主義によるモノの無駄と価値を痛切に批判。そしてdiary of the deadでは情報飽和社会において我々は傍観者でしか無いという残酷さを。Land of the deadではイラク進行とその脅威を。ロメロは常に時代の本質的な問題を示唆し、懸念してきた。アメリカの負の歴史をすべて抑えている。それはドキュメントフィルムよりもドラマシネマよりも残酷でリアリティであり、もっとも恐るべき代物だ。現実は小説よりも不可解で面白い。それをゾンビという産物にシフトしたロメロこそ真の映画監督と言えるだろう。

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